京も奈良も、この湖を通っていた
ようこそ、滋賀県へ。足元に広がる琵琶湖を眺めながら、少し想像してみてください。都である京都が「表舞台」だとすれば、この近江の地はずっと「裏方」として日本史を支え続けてきました。随筆家の白洲正子はこの土地を「日本の楽屋裏」と呼びました。歴史学者の今谷明にいたっては「近江の歴史を書くことは、日本通史を著すのと同じこと」とまで言い切っています。大げさな言葉のようでいて、地図を一枚広げると腑に落ちます。東海道・中山道・北陸道という三本の幹線道路がここで交わり、琵琶湖の水運が若狭湾と上方を結ぶ大動脈として機能していたのです。米も人も情報も、日本列島を動く何もかもが、この湖のほとりを通り過ぎていきました。
「近江」という名前に隠された宇宙観
地名そのものが、すでに物語を帯びています。「近江」とは「近つ淡海」、すなわち都から近い大きな淡水の海という意味です。遠い方の湖は「遠江」——現在の静岡県の浜名湖がそれにあたります。古代の人々が琵琶湖を「海」と呼んでいたという事実は、この水の広大さへの畏敬を如実に示しています。記紀には、景行・成務・仲哀の三天皇が大津市の志賀高穴穂宮に都を置いたと記されており、神話と歴史の境い目において、近江はすでに王権の舞台でした。また、琵琶湖に浮かぶ竹生島・沖島・多景島といった島々は、それぞれ独自の信仰と伝承を持つ聖なる空間として、長い年月にわたって人々の崇敬を集めてきました。湖は生活の道でもあり、神々の棲まう異界でもあったのです。
関蝉丸神社の祭神は、誰を助けていたのか
逢坂の関のそばに立つ関蝉丸神社下社は、祭神にトヨタマヒメを祀っています。海の神の娘であるトヨタマヒメが、なぜ山の峠道の傍らに鎮座しているのでしょう。逢坂は都と近江を隔てる境界の地であり、旅人が行き交い、別れが重なる場所でした。「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」——蝉丸の歌が詠まれたのもここです。境界を守る神として、海と陸の狭間に生きたトヨタマヒメの力を借りたかったのかもしれません。信仰とは、人々の不安の地図でもあります。
810社の神社と、一枚の鮒寿司が語ること
滋賀県には現在約810社の神社があります。この密度の高さは、信仰の層がいかに厚く積み重なってきたかを示しています。そして食の世界にも、同じ重層性が宿っています。鮒寿司は琵琶湖のニゴロブナを塩と米で一年以上発酵させる保存食で、その酸味と香りの強さに初めて口にした方は驚くかもしれません。近江牛は国のGI登録(第56号)を受けた銘柄牛であり、伊吹そば・近江日野産日野菜もそれぞれGI登録を持つ特産品です。山・湖・街道が交わるこの地の豊かさは、食のかたちにもくっきりと刻まれています。三井の晩鐘が水面に溶けてゆく夕暮れどき、鮒寿司の発酵の香りとともに、この土地の時間の深さがひとつになる気がします。