古代の帝が、なぜここに都を移したのか
ほかならぬこの大津の地に、天智天皇は飛鳥から都を移しました。667年のことです。なぜ湖のほとりだったのか、と問いたくなりませんか。近江という地名そのものが答えを示しています。「近つ淡海」——都から近い、大きな淡水の海。この巨大な琵琶湖は、単なる水場ではなく、若狭湾と大阪湾を内陸でつなぐ物資の大動脈でした。東海道・東山道・北陸道という三本の街道も、この土地に向かって収束してきます。天智天皇が大津宮を選んだのは、まさしくその「収束点」に立ちたかったからでしょう。
「水時計を設けた王」という奉り方
近江神宮の祭神は天智天皇、ただお一人です。「かねてより おほみ心に あはしめよ と おほせ出で給へる 御代の栄えよ」——そう境内で語りかけてくる社殿の由緒には、天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を使って民に時を知らせた王として記されています。『日本書紀』には671年に鐘と鼓で時刻を知らせたと書かれており、近江神宮はその「漏刻祭」を今も毎年6月10日に行います。この日が現在の「時の記念日」です。
そして、この神社で毎年行われる「かるた祭り」は、天智天皇の詠んだ百人一首の第1首——「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」——を起点とします。百人一首を使った競技かるたの全国大会「かるた甲子園」が、ここ近江神宮で開かれていることは、多くの方がご存知かもしれません。
「新しい」神社が、これほど深い理由
ここで一つ、大きな驚きをお伝えしましょう。近江神宮は、創建1940年——昭和15年です。大津の古社かと思いきや、建物は戦前に建てられた「新しい神社」なのです。ところが、祭神である天智天皇とこの土地のつながりは1,300年以上前まで遡ります。律令国家の礎を築いた王が湖畔に宮を置き、日本史の骨格を刻んだ場所に、昭和の人々が「その記憶を祀りなおした」のが近江神宮です。建物の新しさと、神話の深さのあいだにある落差——それ自体が、この神社の持つ力の正体かもしれません。
湖が「聖なる場」をつくりつづける
そして近江の信仰地図を広げると、琵琶湖の島々——竹生島の都久夫須麻神社、大津の近江神宮、瀬田の建部大社——が湖を囲むように点在しているのが見えてきます。滋賀には約810社の神社があると伝わっています。これは偶然ではありません。「近江国風土記」の逸文が示すように、古代人にとって琵琶湖は単なる水面ではなく、宇宙を映す「淡海」でした。天智天皇もまた、その水辺に立ち、時を刻み、歌を詠んだ。近江神宮の境内に立ってみると、石段の先に琵琶湖の気配が漂い、あの帝が1,300年前に見上げた空と、今日の青さが重なります。