Basho問いが、土地の知をひらく。
滋賀県 の問い

天智天皇が湖畔に刻んだ「時」の神話

滋賀県 2026-06-07
もとの問い近江神宮の神話

古代の帝が、なぜここに都を移したのか

ほかならぬこの大津の地に、天智天皇は飛鳥から都を移しました。667年のことです。なぜ湖のほとりだったのか、と問いたくなりませんか。近江という地名そのものが答えを示しています。「近つ淡海」——都から近い、大きな淡水の海。この巨大な琵琶湖は、単なる水場ではなく、若狭湾と大阪湾を内陸でつなぐ物資の大動脈でした。東海道・東山道・北陸道という三本の街道も、この土地に向かって収束してきます。天智天皇が大津宮を選んだのは、まさしくその「収束点」に立ちたかったからでしょう。

「水時計を設けた王」という奉り方

近江神宮の祭神は天智天皇、ただお一人です。「かねてより おほみ心に あはしめよ と おほせ出で給へる 御代の栄えよ」——そう境内で語りかけてくる社殿の由緒には、天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を使って民に時を知らせた王として記されています。『日本書紀』には671年に鐘と鼓で時刻を知らせたと書かれており、近江神宮はその「漏刻祭」を今も毎年6月10日に行います。この日が現在の「時の記念日」です。

そして、この神社で毎年行われる「かるた祭り」は、天智天皇の詠んだ百人一首の第1首——「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」——を起点とします。百人一首を使った競技かるたの全国大会「かるた甲子園」が、ここ近江神宮で開かれていることは、多くの方がご存知かもしれません。

「新しい」神社が、これほど深い理由

ここで一つ、大きな驚きをお伝えしましょう。近江神宮は、創建1940年——昭和15年です。大津の古社かと思いきや、建物は戦前に建てられた「新しい神社」なのです。ところが、祭神である天智天皇とこの土地のつながりは1,300年以上前まで遡ります。律令国家の礎を築いた王が湖畔に宮を置き、日本史の骨格を刻んだ場所に、昭和の人々が「その記憶を祀りなおした」のが近江神宮です。建物の新しさと、神話の深さのあいだにある落差——それ自体が、この神社の持つ力の正体かもしれません。

湖が「聖なる場」をつくりつづける

そして近江の信仰地図を広げると、琵琶湖の島々——竹生島の都久夫須麻神社、大津の近江神宮、瀬田の建部大社——が湖を囲むように点在しているのが見えてきます。滋賀には約810社の神社があると伝わっています。これは偶然ではありません。「近江国風土記」の逸文が示すように、古代人にとって琵琶湖は単なる水面ではなく、宇宙を映す「淡海」でした。天智天皇もまた、その水辺に立ち、時を刻み、歌を詠んだ。近江神宮の境内に立ってみると、石段の先に琵琶湖の気配が漂い、あの帝が1,300年前に見上げた空と、今日の青さが重なります。

DEEPER — さらに学術的に深める

## 地形が「聖地」を決めた——地質学から見た琵琶湖と信仰の分布 地質学者の角田清美は、琵琶湖が約400万年前に形成された世界有数の古代湖であることを指摘しています。これほど長い年月、湖が同じ場所に存在し続けたのは、湖底が断層運動によって絶えず沈降し、堆積物が積み重なったからです。湖を取り囲む比叡山・比良山・鈴鹿山系は、その断層運動が生み出した急峻な山肌を持ち、山から流れ込む伏流水と豊かな湿地が湖畔に広がります。天智天皇が大津宮を置いたのも、この断層地形が生んだ「山と水と平地の接点」でした。古代人が聖地を選ぶとき、見えない地質の力が彼らの足を特定の場所へ導いていたとも言えます。近江神宮が立つこの地もまた、断層が積み重ねた400万年の時間の上に建っているのです。

出典: 角田清美『琵琶湖——その生い立ちと環境』

#近江神宮#天智天皇#琵琶湖#滋賀県大津市#古代史
Basho で、いまいる場所に問いかける → ← 記事一覧へ