腐らせて、旨くする。それが一年がかりの知恵
滋賀の食の話をするとき、まず外せないのが「鮒寿司」です。琵琶湖で獲れたニゴロブナを塩漬けにして、炊いたご飯とともに木桶に重ね、一年以上かけて乳酸発酵させる。口に含むと、刺激的な酸味と濃厚な旨みが広がります。「くさい」と遠ざける方もいますが、この食べ物こそ、琵琶湖という水の恵みと、蒸し暑い近江の夏を乗り越えるための、先人たちの真剣勝負の結晶です。冷蔵庫どころか氷すら贅沢だった時代、腐らせるのではなく「発酵させる」という技術に、命をかけていたのです。
近江牛は、なぜあの柔らかさなのか
鮒寿司と並んで、滋賀が全国に誇るのが「近江牛」。国の地理的表示(GI)保護制度の第56号として登録された、日本三大和牛のひとつです。きめ細かな霜降り、口の中でとろけるような脂の甘さ——その秘密は、琵琶湖を取り囲む山々から流れ込む清冽な水と、湿度を帯びた近江の空気にあるといわれています。牛が飲み、農家が使う水も、この土地の水循環が育んだものです。
そしてもう一つ、ぜひ試してほしいのが「赤こんにゃく」。近江八幡の名物で、三二酸化鉄で染めた鮮やかな赤紫色が目を引きます。初めて見る方は必ず「これは何に使うんですか?」と首をかしげます。織田信長が安土城下に「珍しい食べ物を」と命じたという伝承も残り、この土地の歴史の深さを食卓の上で感じさせてくれます。
「米原の境」で、味噌と澄まし汁が別れる
ここで、多くの方が驚く事実をひとつ。滋賀県は「食文化の断層帯」のど真ん中に位置しています。岐阜県関ケ原から米原市にかけての一帯を境に、雑煮の汁が南北でくっきり分かれるのです。米原より南の地域では京都・大阪の影響を受けた白味噌仕立てが主流ですが、湖北地方(長浜あたり)では北陸風の澄まし汁が普通に食卓に並ぶ。同じ県内なのに、お椀の中身が別の文化圏のものになる——その境界が、まさにこの滋賀の地に走っているのです。
伊吹山麓で育つ「伊吹そば」(GI第85号)も、この湖北の風土が生んだ一品。寒暖差の激しい伊吹おろしが、そばの実を引き締め、独特の風味を生みます。近江日野産の「日野菜」(GI第122号)は、鮮やかな紅紫色の根元が美しい蕪の一種で、漬物にすると桃色の美しい色が食卓を華やかにします。
里芋の茎が、豊作の答えを知っている
食と祭りは、この土地では切り離せません。「近江中山の芋競べ祭り」では、里芋の茎の長さを競って、その年の豊凶を占います。長ければ豊作、短ければ注意の年——収穫物そのものを「占いの道具」にしてしまう、なんとも大らかな知恵です。「三上のずいき祭り」では、里芋の茎(ずいき)を束ねて神輿を飾り、水の恵みへの感謝を捧げます。里芋は水田の畔で育つ作物。琵琶湖から染み出す水が田んぼを潤し、その水のそばで里芋が育ち、それが祭りの神輿になる——水と食と祭りが、ひとつの輪になって回っているのが、この土地の姿です。
鴨料理やいもたきも、秋の訪れを告げる湖辺の風物詩。湖岸に腰を下ろして、土鍋から立ち上る湯気を見ながら食べる——その光景を想像するだけで、琵琶湖の水面の匂いが鼻をくすぐりませんか。