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滋賀県 の問い

琵琶湖の水が商人を生んだ——近江五箇条の秘密

滋賀県 2026-06-07
もとの問い近江商人とこの土地の関係は?

湖が、道だった

滋賀県に来てまず感じるのは、水の多さではないでしょうか。琵琶湖は単なる「大きな池」ではありません。古代から「近つ淡海(ちかつおうみ)」と呼ばれ、都人が地理を把握するときの基準点になっていた水の世界です。その湖畔に立つと、対岸がかすんで見えるほど広く、まるで海のように風が来る。この琵琶湖こそが、近江商人を育てた最初の教師だったのです。

東海道・中山道・北陸道という三本の主要街道が、この滋賀の地に集まっていました。陸路だけでなく、琵琶湖の水運も若狭湾から上方へとつなぐ動脈として機能していた。物資も人も情報も、日本列島のあらゆるものがここを通り抜けた。歴史学者の今谷明が「近江の歴史を書くことは、日本通史を著すのと同じこと」と語ったのも、この地の構造的な位置を見抜いていたからです。

「売り惜しみ」を禁じた商人の掟

近江商人が生んだ商いの精神として名高いのが「三方よし(売り手よし・買い手よし・世間よし)」の考え方です。ところが面白いのは、この言葉が実は後世に整理されたものであり、当時の近江商人たちはもっと生々しい掟を持っていたことです。彼らは他国へ旅する行商人として、見知らぬ土地でいかに信用を築くかを命がけで考えた。売りつけたら終わり、ではなく、次の年も来年もその土地に戻ってくる前提で取引した。

長浜の曳山祭りをご存知ですか。ユネスコ無形文化遺産にも登録されたこの祭りでは、豪奢な曳山の舞台で子どもたちが歌舞伎を演じます。この祭りが今も続く背景には、商いで富を得た近江の人々が、地元の神様と祭りに惜しみなく奉納してきた歴史があります。商人は旅先で稼ぎ、故郷の共同体へ返した。「世間よし」は抽象的な理念ではなく、長浜の曳山のように、地面に降りて形になっていたのです。

琵琶湖が消えたら、商人も消える

ここで一つ、予想を裏切る数字をお伝えします。近江商人が最盛期を迎えた江戸時代、彼らの商圏は日本全国にとどまらず、蝦夷地(北海道)から九州まで、さらには朝鮮半島との交易にも及んでいました。ところが、その本拠地である滋賀県は、東西南北どこを向いても山に囲まれた内陸の小国です。海に面していない土地の商人が、海の向こうまで商いを広げていた——この逆説こそが、近江商人の本質を照らし出しています。

海を持たないがゆえに、水を知り抜いていた。琵琶湖の水運で鍛えられた物流の感覚が、全国の川・湖・海港を読む力につながった。近江国の地は、制約をそのまま才能に変えた土地だったのです。

湖の水は、祭りの時間で動く

近江中山の芋競べ祭りでは、里芋の茎の長さを競って豊作か凶作かを占います。三上のずいき祭では、里芋の茎で神輿を飾り、収穫を神に感謝する。湖北から湖南まで、水と土に根ざした祭りが今も生きています。これらは単なる伝統行事ではなく、琵琶湖が運ぶ水の恵みと恐れを、毎年身体で確かめてきた儀式です。

近江商人は、こうした水の祭りの土地から出発しました。水の満ち引きを肌で知る人々だからこそ、商売の波を読む勘が育ったとも言えます。竹生島に鎮座する都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)には、市杵島比売命・龍神・浅井比売命が祀られています。湖の神、水の神を祀るこの島の存在が、近江の人々にとって水がいかに聖なるものであったかを今に伝えています。鮒寿司という発酵食も、琵琶湖の鮒と水と塩が生んだ近江の滋味。近江牛や日野菜といった地の産物とともに、この土地の食はすべて、琵琶湖の水循環の中にあります。

湖を背に、街道の風を受けながら、あなたも少し歩いてみてください。どこかの曲がり角で、行商に出た商人が振り返った湖の青が、見えてくるかもしれません。

DEEPER — さらに学術的に深める

## 水が集落と祭りを設計した 地理学者の水津一朗は、日本の農村集落の立地を水の管理という視点から分析し、集落の形や祭りの周期が水の循環と深く連動していることを示しました。琵琶湖周辺の集落では、湖から流れ出す川の扇状地や、内湖(ないこ)と呼ばれる浅い湿地帯の縁に人々が定住しました。水は恵みであると同時に、氾濫すれば命を奪う力でもある。そのため、水を管理する技術と、水神を祀る祭りは一体のものとして発達しました。近江中山の芋競べ祭りやずいき祭りが里芋の茎を御神体に用いるのは、水田と湖水の恵みを確かめる農業暦の節目として機能していたからです。近江商人が育ったのも、こうした水の管理共同体の中でした。

出典: 水津一朗『日本の村落共同体』(1956)

#滋賀県#近江商人#琵琶湖#水運#長浜曳山祭
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