釣り針を探して、神になった神様
大津の中心街を歩いていると、ふいに緑が目に飛び込む場所があります。そこが天孫神社です。祭神は**彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)**——そう、あの「海幸山幸」の物語で知られる山幸彦その人です。
兄の海幸彦から借りた釣り針をなくし、途方に暮れて海の底へ潜った彦火火出見尊。竜宮の宮殿で綿津見神の娘・豊玉姫と結ばれ、やがて地上へ戻ってきた——そういう「旅の果てに神になった神様」がここに鎮まっているのです。大津の人々はこの神を「天孫さん」と呼んで親しんできました。日本神話の壮大な物語の主人公が、街の日常にするりと溶け込んでいる。それが天孫神社の、まず最初に感じてほしい不思議さです。
「天孫」という名前が示す、この地の誇り
「天孫(てんそん)」とは、天から降りてきた神の子孫という意味です。彦火火出見尊はニニギノミコトの御子であり、初代天皇・神武天皇の祖父にあたります。つまりこの神社は、皇室の血筋のまさに源流に連なる神を祀っているのです。
近江国、すなわち今の滋賀県には約810社の神社があると言われています。それほど信仰の層が厚い土地で、大津という「近江の顔」ともいえる場所に天孫神社が構えている。これは単なる偶然ではなく、この地が古代から王権と深く結びついていた証でもあります。記紀には景行・成務・仲哀の三天皇が大津に都を置いたと記されており、「天孫」の神を祀る社がここに根ざすことの重さが、じんわりと伝わってきませんか。
祭礼の日、大津の街に曳山が走る
天孫神社でもうひとつ見逃せないのが、秋の例祭です。大津には**大津祭の曳山行事**という伝統があり、精巧なからくりを載せた曳山が市中を巡行します。この祭礼はユネスコの「山・鉾・屋台行事」にも登録された、世界が認める祭りです。
からくりというのは、糸を操って人形が動く仕掛けのこと。天孫神社の氏子たちが長年にわたってその技を磨き、受け継いできました。山幸彦が竜宮でひたすら釣り針を探し続けたように、職人たちもまた、祭りのために細い糸を一本一本手繰り続ける——その姿が重なって見えると、祭りがぐっと近くなる気がします。
近江牛と鮒寿司が、すぐそこにある
さて、参拝のあとはお腹が空くものです。天孫神社のある大津を含む滋賀県では、いくつもの誇るべき食があります。地理的表示(GI)に登録された**近江牛**、同じくGI登録の**伊吹そば**、そして琵琶湖の恵みである**鮒寿司**。
鮒寿司は千年以上の歴史を持つ発酵食品で、その強烈な香りに最初は驚く方も多い。でも一口含んだときの複雑な旨みは、まるでこの土地の歴史の重なりそのもの。山幸彦が海の底で見た世界がこんな味だったのかも、などと想像しながら食べると、また格別です。