保育サービスを契約し、家事代行を手配し、宅食を注文する。都市に暮らしていると、子育てに関わるほぼすべての行為に値段がついている。それなのに、なぜだろう——隣の部屋に誰が住んでいるか知らず、熱を出した子どもを頼める人が一人もいないとき、あの購入の積み重ねが何の支えにもならないことに気づく。祭りの夜、見知らぬ子どもと肩を並べて花火を見上げた瞬間の、あの感覚。それはどれだけ支払っても、どのサービスを契約しても、手に入らない。その違和感の正体を問うことが、「豊かな国」を設計するための最初の問いになる。
都市に暮らす親が最初に感じる矛盾は、「お金を使うほど孤立する」という逆説だ。保育の空き待ちをファミリーサポートで埋め、疲弊した夜は宅食で乗り切り、週末は有料の親子イベントへ出かける。支出は増えるが、玄関を開けたときに「大変だったね」と声をかけてくれる隣人はいない。おすそ分けの皿も、子どもを預かってくれる腕も、お金では呼び出せない。この経験の欠落は感傷ではなく、市場が原理的に生産できない価値の不在を指している。
文化人類学者マーシャル・サーリンズは1972年の著作『石器時代の経済学』で、人類の大半の歴史は互酬性・再分配・家政という三つの非市場的形態で成り立ってきたと論じた。市場交換は歴史的には例外であり、地域に残るおすそ分けや共同行事は「前近代の残滓」ではなく人類の標準的な経済様式の継承である。サーリンズが示した驚くべき命題は、豊かさとは資源の絶対量ではなく欲望と手段の比率だということだ。都市化と商品化の加速は、この比率を崩すことで「豊かさ」を損なっている可能性がある。
市場的誘因が非市場的動機を駆逐するメカニズムは、計量的に実証されている。社会政策学者リチャード・ティトマスは1970年に英国と米国の血液提供システムを比較し、有償献血を導入した米国では供給の質と量がともに低下することを示した。経済学者ブルーノ・フライとレト・イェーゲンはこれを「動機クラウディングアウト理論」として理論化し、外的報酬が内発的・利他的動機を「購買行動」に変質させる条件を特定した。地域の互助やおすそ分けにポイント制や補助金を導入しようとする試みが逆効果になりうるのは、感情論ではなく計量的な事実である。
では、どう行動すればよいか。政治哲学者マイケル・ウォルツァーは1983年の著作『正義の諸領域』で、社会には複数の分配領域があり、それぞれに固有の正義原理があると論じた。貨幣という単一の媒体が子育て・祭礼・景観・互助といった領域に侵入するとき、その領域固有の価値が毀損される。読者が日常でできる最小の実践は、「領域の境界を守る行為」だ。隣人への手土産をポイント換算しない、地域行事をサービス消費として評価しない、子どもの遊びに報酬を設定しない——こうした意図的な非商品化の積み重ねが、二重経済を共存させる最小単位になる。
市場経済と非市場経済が接する境界領域には、固有の豊かさがある。生態学者ロバート・コスタンザらが1997年に『ネイチャー』誌で示した試算によれば、世界の生態系サービスの経済価値は年間約33兆ドルに上り、当時の世界GDPの約1.8倍に相当した。市場が「無料」として計上しない自然・共同体・景観の価値は、市場が生み出す価値全体を上回っていた可能性がある。朝市・祭礼・共同農作業といった場は、生態系のエコトーン(移行帯)と同様に、両領域の価値が最も豊かに共存する境界の場だ。「豊かな国」の条件とは、GDPの最大化ではなくこの境界を意図的に設計・保護する制度的想像力にある。
「お金で手に入らないもの」は欠乏の別名ではない。市場が原理的に生産できない価値の別名だ。都市が「すべてを買える場所」に設計されるほど、買えないものの希少性と重要性は増す。私たちが「豊かな国」を設計するとき、何を市場に委ね、何を市場から守るかを、誰がどのように決めるのか——その問いへの答えは、地域の朝市や祭りの中にすでに実装されているかもしれない。