朝5時半に目が覚める。弁当のおかずを詰めながら、頭の中では今日の会議のアジェンダが駆け巡っている。子どもが「ママ、くつしたどこ」と声をかけてくる。その瞬間だけ、すべての手を止めて向き合う。けれども、止めた分だけ後のタスクは積み上がっていく。 夜9時、ようやく子どもが眠った後、スマートフォンで「育児 タイムスケジュール 効率」と検索している自分がいる。頼れるツールは格段に増え、人類の知恵も蓄積され、社会の仕組みも改善され続けているはずの時代に、なぜ私は毎日、時間とタスクに追われているのだろう。 これは、自分の段取りが悪いせいなのだろうか。それとも、もっと根深い場所に原因があるのだろうか。
夕方の台所に立ちながら、ふと思う。便利になったはずなのに、なぜこんなに追われているのかと。冷凍食品も食洗機もある。レシピはSNSで一瞬で手に入るし、困ったときはスマホで検索すれば何かしらの解決策がある。それでも時間は足りない。歴史学者のルース・シュワルツ・コーワンは1983年の著作『More Work for Mother』で、家電の普及が家事時間を削減しなかった逆説を記録した。技術が効率を上げると、清潔さや栄養や教育への期待水準が同時に上昇し、効率化の果実が新たな要求に吸収される。便利な時代の忙しさは、個人の失敗ではなく、構造的な罠である。
産業革命以前、育児は一人の母親が抱え込む営みではなかった。農耕社会では祖母が乳児を背負い、年長のきょうだいが幼児の遊び相手を務め、隣人が食事を持ち寄った。19世紀の歴史家E・P・トンプソンは、産業資本主義が「時計時間」という新しい規律を社会に埋め込んだ過程を論じた。工場の時計に合わせて動く身体が標準とされ、子どもの生理リズムや授乳の不規則さは「非効率」として周縁化された。母親の疲弊の一部は、乳幼児の「生きた時間」と社会の「管理された時間」がかみ合わないことから生まれている。
進化人類学者のサラ・ブラファー・ハーディは、ホモ・サピエンスが「協力的繁殖者(cooperative breeder)」として進化したことを論証した。祖母・父親・年長きょうだい・共同体の成員が育児を分担するアロマザリング(他者による共同育児)こそが、人類の生存戦略の核だったという。生物学的母親が単独で乳幼児を育てるモデルは、進化の歴史においてむしろ例外に近い。現代の共働き家庭が感じる限界は、夫婦二人の能力の問題ではなく、人類が本来依拠してきた育児インフラが社会から失われたことの帰結である。
では今の暮らしの中で、何かを変えられるだろうか。社会学者のアーリー・ラッセル・ホックシールドが「セカンドシフト」と呼んだ構造、つまり有償労働の後に家事・育児という第二の無償労働が待つ二重負担は、夫婦間の分担を変えるだけでは解消しきれない。それでも、一つ試せることがある。「効率的にこなす」ではなく「誰かと分かち合う」という発想の転換だ。保育士・祖父母・地域の親同士など、家庭の外に育児の担い手を意識的に増やすこと。それは甘えではなく、進化的に正しい選択である。
社会学者のシャロン・ヘイズは1996年の著作で「集中的母性(intensive mothering)」という概念を提示した。子どもに常に向き合い、感情的に応答し続けることを母親に求めるこの規範は、普遍的な真実ではなく、20世紀後半に特定の文化と階層の中で強化されたイデオロギーだという。「十分に向き合えていない」という慢性的な罪悪感は、この規範を内面化した結果として生まれる。忙しい毎日の中で子どもと過ごす15分の食事や、眠る前の短い会話は、「足りない時間」ではなく、それ自体として完結した育児の時間である。
「母親とはこういうものだ」という問いへの答えは、歴史も進化も同じ方向を指している。母が一人で、あるいは夫婦二人だけで担い切ることは、人類の設計図に書かれていない。疲弊を個人の問題として内側に抱え込むより、その疲弊を生んでいる構造を外側に問い続ける方が、子どもにとっても、親にとっても、誠実な選択肢である。