新しいメンバーとして組織に入ったとき、最初に手渡されるのはたいてい一枚の紙か、スライドの画面だ。ミッション、ビジョン、バリュー。短い言葉が並んでいる。読んだ瞬間、「なるほど」と思う。だが数ヶ月後、日常業務の中でその言葉を思い出すとき、最初に読んだときとは微妙に違う意味で受け取っていることに気づく。自分の経験が、あの短文に新しい文脈を書き込んでいる。経典もそうだったのではないか。コーランも法華経も、読む者の生の重さによって意味が変容し続けてきた。MVVと経典の距離は、テキストの権威にあるのではなく、解釈する主体が誰に属しているかという問いにある。
ある企業のバリュー策定ワークショップにおいて、参加者は部署も年次も異なり、普段の会議では見せない言葉で互いに話し始めた。「なぜここで働くのか」を問われた瞬間、役職という鎧が薄くなる。文化人類学者ヴィクター・ターナーは1969年の著書『儀礼の過程』で、儀礼の閾的段階(リミナリティ)において通常の社会構造が一時的に溶解し、成員が平等で未分化な共同体(コミュニタス)を経験することを論じた。そのワークショップは、まさにその構造を持っていた。
ターナーはしかし、コミュニタスは制度化された瞬間に再びヒエラルキーへ回収されると警告する。策定されたMVVが額縁に収まり、入社式の定型句になるとき、閾的な熱量は失われる。宗教の歴史もこの繰り返しだった。初期キリスト教の共同体的熱狂は、ニカイア公会議(325年)を経て教義として固定化され、解釈の権限は聖職者に集約された。経典が権威を持つとは、解釈の自由が特定の集団に囲い込まれることでもある。MVVの形骸化は、この構造の組織版といえる。
では、MVVはイデオロギー的な管理装置に過ぎないのか。哲学者ルイ・アルチュセールは、学校・教会・メディアが支配的価値観を「自然なもの」として内面化させる装置(イデオロギー的国家装置)として機能すると論じた。この枠組みを組織に援用すれば、MVVは経営者の意図を普遍的使命として提示し、労働者の自発的服従を引き出す言語的装置として読める。実際、社会学者ポール・ディマジオとウォルター・パウエルは1983年、業界内の組織が互いを模倣して同質化する「制度的同型化」を実証した。各社が「独自の使命」として掲げるMVVが、業界標準のテンプレートに収束している逆説はその典型だ。
だが、テキストの権威は常に解釈をめぐる闘争の場でもあった。文学理論家スタンリー・フィッシュは「解釈共同体(Interpretive Community)」という概念を提唱し、テキストの意味はテキスト自体ではなく、それを読む共同体の慣習と関心によって生成されると論じた。イスラームのイジュティハード(独立解釈)やプロテスタントの聖書主義が、経典の意味を刷新し続けてきたように、組織の現場でMVVを自分たちの言葉で読み直す実践は、管理装置を解釈装置に転換する可能性を持つ。読む側の裁量こそが、テキストの生死を決める。
哲学者チャールズ・テイラーは著書『真正性の倫理』(1991年)で、近代の自己が「真に自分らしくあること」への要求を内面化していると論じた。MVVへの強い同一化は、個人のアイデンティティと組織のアイデンティティを融合させ、組織を離れるときに宗教的離脱(脱会)に似た喪失感をもたらす。これは管理の深化であると同時に、個人が意味を求める実存的な欲求がMVVに投影されている証拠でもある。問題は同一化の深さではなく、その意味が誰によって、どのように解釈されているかにある。
MVVが経典になりうるかという問いへの答えは、どちらでもある、ではない。MVVは、読む者が解釈の主体であり続ける限りにおいてのみ、経典たりうる。テキストの権威が読む者から解釈を奪った瞬間、それは管理の道具に転落する。逆に言えば、組織の中で「この言葉はどういう意味か」と問い続ける実践そのものが、MVVを生きたテキストとして更新する行為だ。経典の力は文字にあるのではなく、問い続ける共同体にある。