駅の改札を抜けて階段の前に立つ。車椅子を使うその人は、上りのエレベーターが反対ホームにしかないことを知っていて、今日も遠回りをする。 周囲の人は「大変だね」と思うかもしれない。けれど、「この駅の設計がおかしい」とは、なかなか考えない。問題はあの人の身体にあると、空気のように信じられているからだ。 精神科の診断を受けた人が「治療を頑張れ」「もっと努力を」と言われる場面も、同じ構造を持つ。「あなたに欠損がある。だから直せ」——この語りは、問いを立てる前に答えを決めてしまっている。 この記事は、その答えを疑うところから始めたい。
この問題は、障害に限ったものではない。 哲学者エヴァ・フェダー・キテイ(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校)は、1999年の著作『Love's Labor』で、リベラル政治哲学の根幹にある「独立した自律的市民」という像が、依存状態にある人と介護者を排除する構造を持つことを論じた。 人間は、生涯を通じて乳幼児期、病気、老齢などで、依存する側と支える側を行き来する。にもかかわらず、社会契約論は「対等な成人」だけを契約主体として設計してきた。 キテイが提唱した「ドゥーリア(doulia)」——依存する人を支える人を、さらに社会が支える相互支援の連鎖——は、自己責任論の根底にある考え方を問い直す概念でもある。
自立は、誰もが達成すべき規範なのだろうか。それとも人間は、誰かに支えられながら生きる存在なのだろうか。 では、今日から何を変えられるか。 一つの問いを提案したい。「この人はなぜできないのか」を、「この環境は誰を排除しているのか」に置き換えることだ。
医療社会学者ピーター・コンラッド(ブランダイス大学)が2005年の論文で示したように、ADHDや更年期、悲嘆反応などが次々と「疾患」として再定義されてきた過程には、製薬産業や保険制度、専門職の権力が「個人の問題」を生み出すメカニズムが働いている。
日常の中で「あの人の問題」として語られていることを、「設計の問題」として読み替える。一つの問いを変えるだけで、会話の向きは静かに変わる。
そして、見えていなかった社会の構造が浮かび上がってくる。 「弱者を優遇すれば社会が破綻する」という反論は、包摂のコストだけを計上し、排除が生む社会的費用を見えなくしている。 社会的孤立、未治療の精神疾患、就労機会の喪失が生む経済的損失は、アクセシビリティへの投資コストを上回ることが、複数の実証研究で示されている。つまり、「包摂にはコストがかかる」という議論は、排除にもまた大きなコストがかかることを見落としている。 さらに、AIや自動化によって「標準的な労働能力」というモデルそのものが揺らぎ始めている。「生産性=価値」という等式も、これまでほど自明ではない。
社会モデルへの転換は、単なる道徳的な呼びかけではない。それは、排除によって生じているコストを捉え直し、変化する現実に応答するための社会の適応戦略でもある。 「努力で克服できた」という語りは、嘘ではない。 しかしそれは、ときに、克服できなかった人の物語を不可視化することで成り立っている。 社会モデルへの転換は、弱者への施しではない。「普通」という虚構を維持するために、全員が払い続けてきたコストを、ようやく正直に計上し直すことだ。 問いは、もはや「誰を助けるか」ではない。 ——「誰のために、この普通を守り続けるのか」。