スマートフォンのスクリーンタイム通知が届くたびに、奇妙な感覚を覚えます。一日の行動が数値に変換され、アプリ別の使用時間が棒グラフで並ぶ。その瞬間、自分が何かのシステムにとって「測定可能な単位」として存在していることを、身体が先に知ります。 何時間働いたか。何件返信したか。何歩歩いたか。数えられることで、初めて価値を持つような感覚です。 これは単なるデジタル依存の問題ではありません。もっと根深い、人間の存在そのものをめぐる問題です。
マルティン・ハイデガーは、1954年の「技術への問い」で、近代技術の本質を「集立(Gestell)」という言葉で捉えました。そこでは、存在するものが「用立て可能な資源(Bestand)」として開示されます。 川は水力発電の資源になり、森は木材の資源になる。そして、人間もまた労働力や注意、データとして扱われる。 スマートフォンは、その構造を日常の隅々にまで持ち込んだ道具なのかもしれません。
スマートフォンを置いた瞬間、自分が何をしたいのかわからなくなる。何もしていない時間に、どこか落ち着かない。通知がなければ、自分の存在まで薄くなったように感じる。 そこでは、技術が単に「便利な道具」として存在しているのではありません。いつの間にか私たち自身が、技術によって測定され、評価され、最適化される側に回っています。 AIは、この傾向をさらに加速させます。
何が効率的か。誰が生産的か。どの行動が望ましいか。何をすれば成果が上がるか。大量のデータをもとに、人間の行動を予測し、比較し、最適化することが可能になる。 けれども、そこで問われているのは「技術をどう使うか」だけではありません。 私たちは、自分自身を何として生きるのか。
人間を、測定できる能力や成果の集合として見るのか。それとも、測定できないものを含んだ存在として見るのか。 ここで、ハイデガーとは別の方向から重要な問いを投げかけたのが、イヴァン・イリイチです。 イリイチは、道具や制度が人間の生活を支えるはずなのに、ある地点を超えると、逆に人間の行為を支配するようになることを繰り返し論じました。
学校は学ぶための制度であるはずなのに、学ぶことよりも「学校に通ったこと」が価値を持つようになる。医療は健康を支えるはずなのに、健康を専門家や制度に委ねることで、人間自身が自分の身体や生活から切り離されていく。 道具は、人間のためにある。 しかし、道具が大きくなりすぎると、人間のほうが道具に合わせるようになる。 この逆転を、イリイチは「コンヴィヴィアリティ(自立共生)」という言葉で問い直しました。人間が道具を主体的に使いこなし、道具によって人間の自律的な営みが豊かになる状態です。 ハイデガーが、私たちが置かれている「技術の存在論的な構造」を問い、イリイチが、その構造のなかで「人間と道具の関係をどう取り戻すか」を問い直した。 二人の議論は、AI時代の私たちにもつながっています。
AIに何をさせられるか。何を効率化できるか。どれだけ多くの仕事を短時間で処理できるか。 もちろん、それらは重要です。けれども、その先に「それは何のためなのか」という問いは残ります。 一日のうちに、目的なく始まり、目的なく終わる時間をつくる。何の成果にもならず、記録も評価もされないことをする。一見すると非効率ですが、イリイチのいうコンヴィヴィアリティを、日常の小さなところから取り戻す実践ともいえます。 ハイデガーが「集立」によって人間まで資源化される構造を問い、イリイチが人間の手に道具を取り戻そうとしたように、必要なのは技術を捨てることではありません。 技術に、人間の生き方そのものを決めさせないこと。 何時間働いたか、何件返信したか、何歩歩いたか。そんな数字に換算できない時間も、人間にはある。 最適化されたシステムのなかで、人間が目的を持てるとしたら、その目的はシステムが与えるものではなく、ときどき自分で取り戻すものなのかもしれません。