朝、目が覚める前から心拍数は上がっている。起床の一時間ほど前にコルチゾールが分泌され、身体は狩りに出る準備を整える。だが実際に始まるのは、画面を開いてメッセージを確認する作業だ。この小さなずれに、現代人の多くが感じる漠然とした疲弊の根がある。身体は三十万年前の朝を生きようとしており、社会は数十年ごとに別の朝を要求してくる。この不一致は、意志の弱さでも適応力の欠如でもない。進化的タイムスケールと社会的タイムスケールという、根本的に異なる二つの時間が、同一の身体の中で衝突しているという問題だ。
フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティは1945年の『知覚の現象学』で、身体を単なる生物学的機械として退けた。身体とは「世界への開口部(être-au-monde)」であり、私たちは身体を通じて世界と相互に構成し合う存在だと論じた。この視点に立てば、社会変化が身体に与える影響は外部からの刺激への「反応」ではなく、世界との関係そのものの変容である。産業構造が変わるとき、変わるのは労働条件だけではない。私たちが世界と触れ合う様式、すなわち身体の存在様式そのものが変わる。
農業革命は一万年前に始まり、人類の日常的身体活動を狩猟採集の多様な動きから、反復的・局所的な農耕作業へと変えた。産業革命はさらに三百年前、その反復を機械のリズムに従属させた。英国の人類進化生物学者ダニエル・リーバーマン(ハーバード大学)が2013年の著作『人体600万年史』で指摘するように、人体は持続的な中強度の身体活動を前提に設計されており、長時間の座位姿勢は進化的に想定外の状態だ。現代の知識労働が要求する「静止した覚醒」は、身体にとって矛盾した命令に等しい。
共同体の規模もまた、身体に深く刻まれた制約に抵触してきた。英国の進化人類学者ロビン・ダンバー(オックスフォード大学)は、霊長類の大脳新皮質の相対サイズと社会集団規模の相関から、人間が安定的な社会関係を維持できる上限を約百五十人と推定した(社会脳仮説)。農村共同体・職場共同体・家族共同体が相次いで解体した現代では、多くの人がこの「適正規模」の外に置かれている。社会的孤立が身体的痛みと同一の神経基盤を活性化するという「社会的痛み」の研究は、孤独を比喩ではなく文字通りの痛みとして捉え直す根拠を与える。
では、この不整合にどう応じるか。神経内分泌学者ブルース・マキューエン(ロックフェラー大学)が提唱した「アロスタティック負荷」の概念は、慢性的な適応要求が身体に蓄積する摩耗を定量化する枠組みだ。摩耗を減らすために試せる変更は小さくてよい。一日の中に身体が「想定している」動きを意図的に挿入すること——短距離を歩く、食事を他者と共にとる、画面なしの時間を確保する——は、薬理的介入なしに生理的安定を回復する経路として、複数の介入研究が効果を示している。社会を変える前に、自分の一日の設計から始めることができる。
しかし個人の工夫だけでは、構造的な不整合には届かない。ドイツの社会学者ハルトムート・ローザ(イェーナ大学)は、技術・社会変化・生活ペースという三層の加速が、身体と世界の「共鳴(Resonanz)」能力を損なうと論じた。共鳴とは、世界に触れられ、触れ返されるという双方向の応答関係だ。加速する社会では、物事が手応えを持つ前に次の対象へ移行することを強いられる。これは身体知(タシット・ノウイング)の蓄積を阻む。身体が世界との関係を学習する時間そのものが、加速によって圧縮されている。
身体を改造して社会に合わせるという選択肢は、哲学者ハンス・ヨナスが1979年の『責任という原理』で警告した地点に私たちを連れ戻す。有機体は環境との関係において自己を維持しようとする根源的な自由と脆弱性を持つ、とヨナスは書いた。脆弱性を消去することは、その自由も消去することだ。身体の不整合は病理ではなく、身体が世界に抵抗しているという信号かもしれない。社会を身体に合わせるという逆転の発想こそが、次の設計原理になりうる。