2023年の夏、ヨーロッパ南部では史上最高気温が更新され続け、農地は干上がり、観光客は熱中症で倒れた。しかし株式市場は翌週には平常運転に戻っていた。気候の異変と資本の論理の間には、奇妙な断絶がある。地球そのものは、過去5億年のあいだに現在より10℃以上高温の時代を何度も経験しており、今回の温暖化も地質学的には「よくあること」だ。問題は地球ではなく、人類文明が完新世の気候安定帯という奇跡的な1万年の窓の中に全ての農業・都市・インフラを築いてしまったことにある。その窓が閉じようとしているのに、市場は短期の利益計算しかできない。なぜそうなるのか、そしてどうすれば変えられるのか。
2018年、ウィリアム・ノードハウスはノーベル経済学賞を受賞した。気候変動の経済分析に生涯を捧げた功績による受賞だったが、その受賞スピーチの直後、批判者たちは一つの数字を指摘した。ノードハウスのDICEモデルが採用した社会的割引率(将来の損失を現在価値に換算する利率)は年率約5%であり、その設定のもとでは100年後の壊滅的な気候被害も「現在価値」では驚くほど小さな数字になる。割引率5%で計算すれば、100年後の1兆円の損失は今日の約76億円にしか見えない。市場の時間軸は、未来の命を構造的に安く見積もるように設計されているのだ。
この問題を哲学的に先取りしていたのが、ドイツの哲学者ハンス・ヨナス(1903-1993)だった。1979年に刊行した『責任という原理』の中でヨナスは、技術文明が遠い未来・遠い他者に与える影響に対して現在世代が責任を負うという「恐れのヒューリスティック」を提唱した。楽観的な予測と悲観的な予測が拮抗するとき、悲観的シナリオに従って行動せよという原則だ。ヨナスはアリストテレスの目的論的自然観を現代に接続し、自然には人類文明を維持する「目的」があるという前提を倫理の基盤に据えた。これは「価値中立的な資源」として自然を扱う近代経済学の前提とは根本的に相容れない。気候変動は費用便益問題ではなく、存在論的責任の問題だとヨナスは言うだろう。
しかし哲学的な責任論だけでは政策は動かない。ここで自然科学が決定的な役割を果たす。ヨハン・ロックストロムらが2009年にNatureで発表したプラネタリー・バウンダリーは、気候変動を含む9つの地球システム境界を定量化した。気候変動の境界はCO₂濃度350ppmとされるが、現在はすでに420ppmを超えている。2018年にWill Steffenらがサイエンスに発表した研究は、地球システムが「ホットハウス・アース」と呼ばれる自己強化的な温暖化経路に入り込むリスクを示した。地球は平気かもしれないが、人類文明が依存してきた完新世の安定条件は、取り返しのつかない形で失われつつある。
では制度は何ができるか。2012年にアセモグルらがAmerican Economic Reviewに発表した論文は、炭素税と研究補助金を組み合わせた政策が技術革新の方向性を化石燃料から再生可能エネルギーへ誘導できることを理論的に示した。炭素税単独では不十分であり、イノベーション補助金との組み合わせが鍵となる。マリアナ・マッツカートが提唱するミッション経済論もこれと響き合う。月面着陸のように国家が明確な目標を設定し公的リスクを先行負担することで、民間資本が追随するイノベーションの生態系が生まれる。「儲からない問題」は、制度設計によって「儲かる構造」に変換できる。
ニコラス・スターンが2006年のスターン・レビューで採用した社会的割引率は年率約1.4%だった。ノードハウスの5%との差は、単なる技術的な数値の違いではない。それは「現在世代は未来世代に対してどれだけの責任を負うか」という倫理的判断の違いだ。低い割引率は、100年後の被害を現在と同等に重く扱うことを意味する。スターンの計算では、今すぐGDP比1%を気候対策に投じることで、将来のGDP比5〜20%の損失を回避できる。この非対称性こそが気候対策の経済合理性の核心だ。問題は「儲かるかどうか」ではなく、「誰の時間軸で儲かるかどうか」を問うているのだ。
市場は本質的に現在世代の選好を集計する装置であり、まだ生まれていない人々の票は持っていない。気候変動対策を「経済合理的でない」と言うとき、私たちは未来世代を投票から排除した選挙の結果を「民意」と呼んでいるに過ぎない。ならば問うべきは「どうすれば対策が儲かるか」ではなく「誰を経済計算の中に含めるか」だ。割引率の設定は倫理的選択であり、技術的中立性を装った政治的決断だ。その決断を市場に委ねる限り、人類は気候変動に勝てない。