月曜はピアノ、火曜は英語、水曜は体操、木曜はプログラミング。都市部に暮らす幼稚園5歳児の週間スケジュールを見せてもらったとき、「何もしない午後」が一コマも存在しないことに気づいた。しかしそれは、習い事の問題だけではない。認定こども園の開園時間は最長11時間に及ぶ。共働きの増加は長期的な社会構造の変化によるものであり、コロナ禍はその流れを後押しし、働き方や保育ニーズを変化させた契機となった。午後の習い事どころか、泥だらけになって走り回る時間すら消えている。「管理された安全」の中で、幼児期という人間にとって最も豊かであるべき時間が、静かに形を失いつつある。
フリードリヒ・フレーベルが1837年にドイツで最初の幼稚園を開いたとき、その中心に置いたのは「授業」ではなく「遊び」だった。著書『人間の教育』でフレーベルは、遊びを「幼児期の最高形態」と呼んだ。それは子どもが世界を模倣し、内側から意味を生み出す行為であり、外から注入される知識とは本質的に異なるものだった。この哲学は、約190年後の今、習い事と長時間保育が埋め尽くした幼児の時間割の前で、正面から問い直されている。
認定こども園制度が2006年に始まり、幼稚園と保育所の一元化が進んだ結果、子どもが施設で過ごす時間は大幅に延びた。コロナ禍を経て少子化と共働き化が加速した2020年代、11時間開所は都市部のこども園では標準となった。長時間在園は親の就労を支えると同時に、子どもが「何もしない時間」を持てない構造を制度として固定した。中山間地域では逆に保育所の統廃合が進み、通園距離が伸びて子どもの生活圏そのものが縮んでいる。都市と農村で、異なる形の「時間の収奪」が同時進行している。
米ハーバード大学のピーター・グレイは2011年、1955年から2000年にかけて子どもの自由遊び時間が劇的に減少したことを示し、同期間に青少年の不安・抑うつ指標が上昇したことを論じた(Gray, 2011, American Journal of Play)。自由遊びは単なる余暇ではない。カナダ・コンコーディア大学のアデル・ダイアモンドの研究が示すように、ルールを自ら設定して守る遊びは前頭前野を鍛え、実行機能——衝動を抑え、計画し、切り替える能力——を育む。この能力は学業成績よりも、成人後の社会適応と強く相関する。
では、今の保育・幼児教育の現場で何ができるか。一つの手がかりは「応答的関係」という概念にある。哲学者ネル・ノディングスは1984年の著作『ケアリング』で、教育の本質を知識の伝達ではなく「ケアする者とケアされる者の相互的な応答」と定義した。保育者が子どもの興味に応答し、子ども自身が次の問いを立てる——この往復運動の中にこそ、発達の駆動力がある。11時間の在園時間の中でも、保育者が「管理」ではなく「応答」に軸足を置くことで、制度的制約の中に遊びの哲学を埋め込むことは可能だ。
ノーベル経済学賞受賞者のジェームズ・ヘックマン(シカゴ大学)は、幼児期への1ドルの投資が成人後に7〜13ドルの社会的リターンをもたらすと推計した。だがこの数字が示すのは「早期に詰め込め」という指令ではない。ヘックマンが分析したペリー就学前プロジェクトの核心は、子どもが自ら選択し行動する「能動的遊び」と、安定した養育関係の組み合わせにあった。経済学のデータが、フレーベルの哲学と同じ場所に辿り着く。幼児期に必要なのは、密度の高いプログラムではなく、密度の低い時間——余白——である。
「こども真ん中社会」という言葉は、子どもを中心に据えるように聞こえる。しかし11時間の在園時間も、習い事で埋まったスケジュールも、どちらも大人社会の経済論理が幼児期に刻んだ痕跡だ。フレーベルが「遊びは最高形態」と言ったとき、彼は子どもを未完成な大人として見ていなかった。遊ぶ子どもは、すでに完全な存在として世界と関わっている。問われるべきは、その完全性を守る制度設計を、私たちがまだ本気で試みていないという事実だ。