誰かの投稿を見て、静かに画面をスクロールしたことはないでしょうか。反論したいわけでも、賛同したいわけでもない。ただ、何かを言えば面倒なことになる、という予感だけがある。日本では、職場でも家族の食卓でも、政治や社会について語ることは長らく「空気を読まない行為」とされてきました。沈黙は礼儀であり、対立は失礼であるという文化的圧力が、分断をゆっくりと、しかし確実に見えにくくしてきた。見えにくい分断は、解決されないまま積み重なります。この静けさの中に、社会の何が起きているのかを、人類学と社会科学の交差点から問い直してみます。
近所の商店街が閉まり、農村から若者が消え、地方都市の中心部にシャッターが増える。この風景を「過疎化」と呼ぶとき、私たちはそれを経済的な現象として処理しがちです。しかし、こうした周縁化のプロセスは、歴史の表舞台から排除され、語る機会を奪われた人々の存在を見えにくくする過程でもあります。地域の衰退は単なる経済問題ではなく、ある集団の語りが別の集団の語りによって覆い隠される過程でもあるのです。日本における地方と都市の分断も、この視点から読み解けば、経済格差の問題である以前に、誰の現実が「本当の現実」として扱われるのかをめぐる問題だと捉えられます。
文化的対立は、単純に異なる価値観がぶつかることではなく、異なる意味体系が交差する場として捉えることができます。たとえば、人類学者のマーシャル・サーリンズが1985年の『歴史の島々』で発表したハワイ先住民とヨーロッパ人の接触も、単純な「文明対野蛮」の衝突ではなく、それぞれの宇宙論や世界観が交差した出来事として理解できます。この視点を現代社会の分断に当てはめると、保守とリベラルの対立や、都市と地方の乖離は、どちらか一方が間違っているというよりも、異なる意味の地図を持つ人々が、同じ現実を異なる言葉で記述している状態だと考えられます。分断を「失敗」と嘆く前に、そもそも何と何が衝突しているのかを問う必要があります。
社会心理学者のジョナサン・ハイト(米バージニア大学)は、2012年の著作『社会はなぜ左と右にわかれるのか: 対立を超えるための道徳心理学』で、道徳基盤理論を提唱しました。人間の道徳的直観は、「ケア・公正・忠誠・権威・神聖・自由」といった複数の基盤から成り、保守とリベラルでは、それぞれの基盤に対する感受性の強さが異なるとされます。重要なのは、これは単純な論理の違いではなく、何を道徳的に重要だと感じるかという直観の違いでもあるという点です。議論によって相手を説得できないのは、相手が愚かだからとは限りません。そもそも異なる道徳的直観の上に立っている可能性があるからです。「話し合えば分かる」という前提そのものが、ここでは問い直されます。
では、分断は縮まらないのでしょうか。民主主義において重要なのは、対立そのものをなくすことではなく、対立がどのような形で表れるかです。すべての人が「合理的な合意」に到達することを目指すのではなく、意見の違いを抱えたまま、それぞれの立場を正当に主張できる場をつくることが求められます。「敵(enemy)」との戦いではなく、「敵対者(adversary)」との競争へ――。相手を排除すべき敵ではなく、正当な異議を持つ者として認めながら争うこと。それは分断そのものを修復するというより、対立したまま共存するための技法です。まずは、意見の異なる人の話を「論破すべき主張」ではなく、「別の地図の描き方」として聴いてみることから始めてもよいでしょう。
集団間の競争は、人類の歴史において、内集団への協力と外集団への警戒や敵対を同時に促してきたと考えられています。分断を生み出す傾向には、一定の進化的背景があるのです。しかし同時に、文化や制度によって、その傾向を緩和できることも重要です。民主化後の社会では、制度への信頼が失われると分断が深まりやすい一方、市民的な対話の場が制度的に支えられることで、対立を「共存可能な競争」へと変えていく可能性があります。制度設計には、対立を増幅するだけでなく、それを制御し、共存のための条件を整える力もあるのです。
分断のない社会は、おそらく存在したことがありません。問うべきなのは、「分断をゼロにできるか」ではなく、「どの程度の分断なら共存が可能なのか」ということです。沈黙によって分断を見えなくすることは、解決ではなく、問題の蓄積につながります。 異なる意味の地図を持つ者どうしが、相手を敵ではなく異議を申し立てる者として認める場。その場を設計することが、いまの社会に求められているのではないでしょうか。 分断は、必ずしも社会の失敗を意味しません。それは、社会が複数の現実を抱えながら生きていることの表れでもあります。その複数性を直視し、対立をなくすのではなく、対立したまま共存できる条件を考えること。そこから、共存への道筋が始まります。