泣き声に応えて近づいてきた大人と、乳児の目が合う。保育の場でありふれたそんな瞬間に、何が子どもの内側に残るのだろうか。抱き上げられるまでのわずかな時間、その視線が温かいものであるか、義務をこなすだけのものであるかを、乳児はまだ言葉を持たないまま受け取っている。そしてその積み重なりが、何十年も後に「お天道様に顔向けできない」という感覚として浮かびあがるとしたら。見守りと監視は、どこで分かれるのか。その問いは、乳児と養育者のあいだで交わされる視線の質にまで遡ることができる。
「お天道様が見ている」という言葉を、幼いころに聞いたことがある人は多いだろう。誰も見ていなくても、天は見ている。だからこそ恥ずかしいことをするな、という戒めである。この感覚は、儒教の天道思想や民間の太陽信仰などが長い時間をかけて重なり合って育ったものと考えられており、一つの思想に還元できるものではない。ただ共通しているのは、「見られる」という経験が倫理の基盤になるという直観である。問いはここから始まる。その「見られる」感覚は、いつ、どのようにして人の内側に根づくのか。
フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは1961年の著作『全体性と無限』のなかで、他者の「顔」が持つ倫理的な力を論じた。他者の顔は、力によってではなく「殺すなかれ」と訴えかけ、私に応答を迫るものだとレヴィナスは言う。その顔は傷つきやすい他者の顔であり、見つめ合う対等な関係ではない。「顔向けできる」という日本語の感覚との重なりは、思想上の系譜ではなく筆者の類比として受け取ってほしいが、「顔」という言葉が倫理の場に召喚されるとき、見る・見られるという関係が道徳の核心に触れることは確かである。
発達心理学者メアリー・エインズワースは1978年の研究で、養育者が乳児のシグナルに適時・適切に応答する「応答性」の質が、子の内的作業モデル(Internal Working Model)の形成に深く関わることを示した。内的作業モデルとは、自己・他者・世界への基本的な信頼の鋳型である。温かく応答的に見守られた乳児は「自分は応えてもらえる存在だ」という自己像を育てる。この像が、後年の「見られていても恥ずかしくない自分でいたい」という感覚の土台になるという仮説は、発達研究の知見と整合する。
ただし、見守りはつねに安心を生むわけではない。臨床心理学者ジューン・プライス・タングニーの研究は、恥(shame)と罪悪感(guilt)を実証的に区別した。恥は自己全体の否定感と他者視線への過敏さに結びつき、罪悪感は特定の行為への後悔と修復動機に結びつく。監視的な視線のもとで育つ子どもは、恥の感受性が過剰になる可能性が考えられる。お天道様の眼差しが健全な倫理的自己調整として機能するか、病理的な監視感覚に転化するかは、乳幼児期にどのような質の視線を受けてきたかと無関係ではないだろう。
保育の5領域(健康・人間関係・環境・言葉・表現)は、到達目標の積み上げ階段として読まれることが多い。しかしジェローム・ブルーナーのらせん型カリキュラム論を補助線にすれば、5領域もらせんとして読めるのではないかという問いが立つ。「身近な人と気持ちが通じ合う」という0歳児の経験は、5領域すべての根底に流れる通奏低音である。人間関係の領域で育まれた応答の感覚は、言葉や表現の領域を通じて深化し、再び人間関係へと戻ってくる。倫理的感受性もまた、このらせんのなかで少しずつ形をとっていくものかもしれない。
「お天道様に顔向けできる」という感覚には、顔がない。太陽は目を合わせてくれない。それでも人はその眼差しを感じる。その感覚は、乳児期に養育者の顔から受け取った無数の応答の記憶が、やがて内面化された他者として定着したものではないか。見守りとは、顔を持った他者が、応答可能な距離にいることである。監視は、その顔を消す。顔のないお天道様が温かく感じられるとしたら、それはかつて顔のある誰かに、確かに見守られた記憶があるからなのかもしれない。