自分の思いついた問いを共有したら次の瞬間にはAIが生成した「答え」で埋め尽くされていた。問いを立てた人間は、その答えを読んで何かを学んだだろうか。それとも、考える前に答えが来てしまうことに慣れていっただろうか。技術が速く走り、人間の内側がそれに追いつけないとき、道具は発達を促すのではなく、発達を迂回させる。この問いは教育学の問いではない。人がどのように意味を構築し、傷を抱えたまま世界に関わり、集団の中で変容するかという、学習の本質をめぐる問いである。
ロバート・キーガンは1994年、ハーバード大学の発達心理学者として著書『In Over Our Heads』の中で、現代社会が人々に要求する認知的複雑性が、ほとんどの成人の発達段階を超えていると指摘した。彼の「意識の発達理論」では、人は「道具的思考」から「社会化された心」「自己著述する心」「自己変容する心」へと段階的に発達するが、この移行は自動的には起きない。AIが高度な出力を瞬時に提供するとき、人は自己著述する段階に達していなくても、その出力を「自分の思考」として扱えてしまう。道具の精度が、使い手の発達段階の錯覚を生む。
ケン・ウィルバーが2000年に提唱したインテグラル理論は、個人の内面(意識)・行動(身体)・文化(共有された意味)・社会制度(システム)の四象限が相互に規定し合うと論じた。AIの普及は主に「行動」と「社会制度」の象限で進んでいるが、「内面」と「文化」の象限の変容は格段に遅い。この非対称な加速が、ウィルバーの言う「ラインの乖離」を生む。知性のラインが高くとも、感情・道徳・対人のラインが停滞したまま高度な技術を扱うとき、システムは人を包摂するのではなく、発達の偏りを増幅する装置に変わる。
神経科学者のベッセル・ヴァン・デア・コークは2014年、著書『The Body Keeps the Score』で、トラウマが前頭前皮質の機能を抑制し、脅威知覚を司る扁桃体を過活性化させることを示した。この状態では、複雑な情報を統合し意味を構築する能力そのものが損なわれる。集団的トラウマ、たとえば植民地支配・戦争・貧困の世代間継承は、個人の神経系だけでなく、コミュニティの「共有された注意の向け方」を変える。スマートフォンやAIへの過剰依存が最も深刻な形で現れるのは、安全の感覚を持てない人々においてであり、これは技術設計の問題であると同時に、癒しの不在の問題でもある。
では、何ができるか。発達心理学者のリサ・フェルドマン・バレットは2017年、感情が脳の予測処理によって「構築」されるものであることを示した(『How Emotions Are Made』)。感情は受け取るものではなく、過去の経験と文脈から生成されるという視点は、トラウマインフォームドな学習設計に直接応用できる。安全な関係性の中で新しい文脈を繰り返し経験することで、神経系の予測パターン自体を更新できる。AIを使う前に、使う人の内的文脈を整えることが先決だ。ツールを渡す前に、その人が「問いを立てられる状態にあるか」を問う場の設計が必要になる。
和辻哲郎は1935年の『風土』において、人間存在を「間柄的存在」として捉えた。個人の発達は孤立した内面の問題ではなく、気候・地形・他者との関係性という「風土」の中で形成されると論じた。この視点から見れば、経済格差によって異なる「風土」に置かれた人々が、同じAIツールを使っても、まったく異なる発達経路をたどることは自明である。ブロードバンドへのアクセスよりも深い問題として、「問いを立てる文化的土壌」の格差がある。技術の民主化は、意味を構築する共同体の民主化なしには、格差を縮めるどころか、別の形で固定する。
AIが人を賢くするかどうかは、AIの性能の問題ではない。それを使う人が、どの発達段階にあり、どのような傷を抱え、どのような共同体の中で問いを立てているかの問題だ。技術の進化を止めることはできないし、止める必要もない。だが、発達の速度を無視して技術を配布することは、処方箋なしに薬を渡すことに等しい。人類がすでに持っている知恵と技術で世界の問題が解決しないのは、知識が足りないからではなく、傷ついたまま意味を構築できない人々が、制度の外に置かれ続けているからだ。