炉の火が夜空を赤く染める。タタラ場の女たちが鞴を踏むたびに、山の木が炭になり、鉄が生まれる。ハンセン病者も、売られた女も、ここでは名を持つ。エボシ御前が作ったのは武器だけでなく、身分制の外側に置かれた人々が息をできる場所だった。その場所を支えているのが、山を焼く火だとしたら——救済と破壊は、同じ炎の両面である。宮崎駿が1997年に描いたこの問いは、技術とは何か、という最も古い哲学的問いに、今も答えを保留したまま燃え続けている。
エボシ御前は悪人ではない。この一点から、もののけ姫の問いは始まる。彼女が率いるタタラ場は、室町末期の身分秩序から弾き出された人々——病者、流民、性売買から逃れた女性——を受け入れる、当時としては異例の福祉的共同体だった。鉄を作ることが、人を救う手段になっている。技術は、ここでは明確に解放の道具として機能している。
しかし炉の火は、山の神々を傷つける。製鉄に必要な木炭を得るために、森は次々と切り拓かれる。実際、日本の「たたら製鉄」は中国山地の植生を大規模に変えた。鉄1トンを生産するために必要な木炭量は、森林の再生速度をはるかに超えていた。経済人類学者カール・ポランニーは1944年の著作『大転換』の中で、土地が市場の論理に組み込まれた瞬間に「自然の商品化」が起きると論じた。山が「鉄の原料」として見られ始めたとき、神々は傷つく。
フランスの哲学者ジルベール・シモンドンは1958年の著作『技術的対象の存在様式について』の中で、技術的対象は本質的に善でも悪でもなく、それが接続する環境との関係性の中でのみ意味を持つと論じた。タタラ場の鉄は、病者を救う道具にもなり、森を消す炎にもなる。技術の「意味」は、それが誰と何に触れるかによって、つねに複数の顔を持って現れる。善悪の問いは、技術そのものではなく、その接続先に向けられなければならない。
レヴィ=ストロースは1964年の『神話論理』で、神話の本質的機能は二項対立を「解決」することではなく、矛盾を生きられるものにすることだと論じた。もののけ姫における「森/鉄」「神/人間」「自然/文化」の対立は、物語の最後まで解消されない。アシタカはその媒介者として機能する。タタラ場にも森にも属さない彼は、呪われた腕を持ちながら、どちらの側にも判決を下さない。物語が「解決」を拒否することは、欠陥ではなく、問いの誠実さである。
アシタカが持つのは、呪われた身体でなお「見続ける」という意志だ。タタラ場が救済の場であることも、森が傷ついていることも、同時に見る。この「同時に見ること」は、技術倫理において最も困難な態度である。マリア・ピュイグ・デ・ラ・ベラカサは、ケアとは常に誰かの犠牲を含む非対称な実践だと指摘した。誰かを救う行為は、同時に何かを傷つけている。その非対称性を直視することなく、技術の問いは問いとして成立しない。
技術は、何を救い、何を傷つけているかを見続けることでしか問えない。タタラ場を悪と断じることも、森の側に立って人間の営みを否定することも、問いを閉じる身振りだ。アシタカの呪いは解けなかった。しかし彼は見ることをやめなかった。その視線こそが、技術と共に生きる者に残された唯一の倫理的姿勢である。