手のひらに乗るほどの石鹸を使い切ったとき、ふと思った。この白い塊はどこから来たのだろう。オリーブの実が絞られた地中海沿岸の丘、灰汁を煮詰めた職人の釜、数週間の熟成を経て切り出された断面。完成品として届いた石鹸は、その来歴をひとかけらも見せない。表面はなめらかで、何も語らない。だが想像力がいちど背後へ向かうと、石鹸はもはや石鹸ではなくなる。それは土地と時間と手が結晶した、ひとつの世界の入口になる。この感覚こそが、これから論じたい「想像資本」の核心である。
二十世紀のラグジュアリーは、「何を持つか」が社会的位置を示す仕組みの上に成立していた。ソースタイン・ヴェブレンが1899年に『有閑階級の理論』で描いた誇示的消費(conspicuous consumption)は、モノを地位の記号として機能させる論理だった。ピエール・ブルデューはこれを精緻化し、象徴資本(symbolic capital)という概念で、文化的威信が社会的差異を再生産する機制を解剖した。ロゴ、希少性、正しい作法——それらは他者との差異を可視化するための装置であり、ラグジュアリーはその差異の最も洗練された演出だった。
しかしその演出は、いま臨界点を越えつつある。ロゴは複製され、希少性は操作され、作法は動画で学べる。差異化の記号が大衆化した瞬間、象徴資本としての価値は急速に目減りする。問いはここから始まる——記号の模倣が追いつかない価値は、どこに宿るのか。完成品の表面が均質化するほど、その背後に隠れていた世界が、逆説的に価値の源泉として浮かび上がる。象徴資本の限界は、新しいラグジュアリーへの問いを強制的に開く。
フランスの哲学者ガブリエル・マルセルは1935年の『存在と所有』で、所有(avoir)が主体を対象に縛りつけ、存在(être)の開放性を閉じると論じた。完成品を所有する行為は、その背後の世界を不可視にする。これに対し、私は、想像資本とは三段階で定義できる力であるのではないかと考える。第一に「可視化」——素材・土地・職人・時間という前提世界を知ること。第二に「畏敬」——自分より大きな世界に支えられていると感じること。第三に「参与」——手入れ・修繕・継承に関わりたくなること。所有が世界を閉じるとすれば、想像資本は世界を開く。
想像資本の第二段階、畏敬(awe)には神経科学的な裏付けがある。米カリフォルニア大学バークレー校のダッチャー・ケルトナーらは、広大さへの知覚が「スモール・セルフ(small self)」、すなわち自己縮小の感覚をもたらし、時間感覚を拡張し、向社会的行動を促すことを実証した。プロダクトの背後に土地・生態系・時間の連なりを想像するとき、人は他者に優越する感覚ではなく、自分を包む世界の広大さに圧倒される。畏敬は差異化の対極にある。それは自己を相対化し、関係の網の目へと開く認知的転換である。
文化人類学者ティム・インゴルドは、モノを「完成した対象」ではなく「素材と環境との応答的な過程(making)」として捉え直した。職人は素材に命令するのではなく、素材の声に応答しながら形を引き出す。ハンナ・アーレントが『人間の条件』(1958年)で論じた「制作(work)」もまた、人間が共通世界に永続するモノを残す行為として、単なる消費と区別された。プロダクトの背後に職人の判断と素材の抵抗の蓄積を想像するとき、それは個人の所有物ではなく、共通世界に属するものとして現れる。
想像資本は、畏敬で完結しない。政治哲学者ジョアン・トロントがケアを「実践的・政治的行為」として定義したように、前提世界への想像力は手入れ・修繕・継承への参与を促す。リチャード・セネットが『クラフツマン』(2008年)で描いたように、素材と対話し技を蓄積する行為は、所有者を管理人(steward)へと変容させる。プロダクトはもはや記号ではない。それは世界への入口であり、その世界を次世代へ手渡す責任の媒介である。所有が世界を閉じるとすれば、参与は世界を継ぐ。