富山市の中心部を歩いたとき、路面電車が静かに曲がる交差点で、ふと足が止まりました。乗客はまばらで、シャッターの降りた店舗が並ぶ。けれど不思議と、廃れた感じがしない。人が減り、経済規模が縮んでいるのに、なぜこの街には「息をしている」感触があるのか——その問いが、ポスト成長都市を考える出発点になりました。成長を前提にできない時代に、地域の「豊かさ」をどう捉え直せるのか。それは規模の大きさではなく、価値が地域のなかで巡る「循環の健全さ」ではないか。この問いを解くカギは、意外にも経済学の外側にありました。
日立市に1週間滞在した研究者の記録があります。かつて日立製作所の城下町として栄えたこの都市は、工場の縮小とともに人口が流出し、商店街は空洞化しました。ところが詳しく調べると、所得そのものが消えたわけではなく、「外へ流れた」ことが分かります。大手チェーンで買い物をすれば、利益は本社へ。プラットフォームで宿を予約すれば、手数料は海外企業へ。地域内で一度使われたお金が、次の支出で再び地域に戻らない——この「域内循環率(Local Retention Rate)の低下」こそが、縮小都市の本質的な問題です。
この構造を理論化したのは、スウェーデンの経済学者グンナー・ミュルダール(Gunnar Myrdal)です。1957年の著作で示した「累積的因果連鎖(Cumulative Causation)」は、中心が周辺から資本・人材・所得を引き寄せ、その優位がさらに集積を呼ぶ自己強化メカニズムを描きました。東京への一極集中は、この論理の現代的表れです。しかし核心は単なる地理的不均衡ではありません。英国の経済地理学者アンドレス・ロドリゲス=ポーゼ(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)が2018年に示したように、「取り残された場所」の住民が感じる経済的疎外は、やがて政治的怒りへと転化します。循環の断絶は、民主主義の亀裂でもあるのです。
ではどこが詰まっているのかを「診断」する視点が必要です。ここで注目したいのが、地域の循環力を複数変数の掛け算で測るアプローチです。掛け算であることが重要で、一つの変数がゼロに近ければ全体がゼロに近づく——優劣の序列ではなく「最も弱い環=ボトルネック」を見つけるための道具です。ただし定量化には認識論的な落とし穴があります。数値は比較を可能にする一方、その土地にしかない固有性を消去します。別府の温泉地形を「医療資源」と読み替えたとき、数値には現れない地熱・湯脈・入浴文化という固有の層が、新しい機能語彙で再記述されました。これを「オントロジカル・リフレーミング(場所の存在様式の再記述)」と呼びます。
この再記述の実践として、南米アンデスの先住民概念「ブエン・ビビール(Buen Vivir)」が示唆に富んでいます。ケチュア語で「sumak kawsay(よく生きる)」と呼ばれるこの概念は、2000年代以降エクアドルとボリビアの憲法に組み込まれ、GDP的豊かさを拒否し、人間・共同体・自然の「関係性の均衡」を豊かさと定義します。エクアドルの経済学者アルベルト・アコスタ(2013年)は、これが先住民的ノスタルジーではなく、近代的発展パラダイムへのオルタナティブ認識論として機能することを示しました。PGCLが問う「循環の健全さ」は、この「関係性の質」という視点と構造的に共鳴します。豊かさとは、量の蓄積ではなく、関係の密度なのです。
富山×高岡の事例は、この関係性の密度を都市設計に落とし込んだ試みとして読めます。コンパクトシティ政策が注目されがちですが、より本質的なのは、縮小しつつあるインフラ・農地・空き家を「共有財(コモンズ)」として再設計しようとする動きです。ノーベル経済学賞受賞者のエリノア・オストロム(インディアナ大学)が示したポリセントリック・ガバナンス(複数の自律的意思決定主体による統治)は、中央集権的な管理なしに共有資源を持続させられることを実証しました。人口が減るほど、一人ひとりが担う共有財の比重は増す。縮小は、コモンズへの参加を強制する圧力でもあります。
生態学者ユージン・オダム(Eugene Odum)は1969年、成熟した生態系の特徴として「低いスループット・高い循環効率・豊かな多様性」を挙げました。成長期の生態系は物質を外から取り込み急速に拡大しますが、成熟期は内部の循環で自らを維持します。縮む地域は、衰退しているのではなく、成熟した生態系と同じ状態へ移行しているのかもしれません。ならば問うべきは「どう成長を取り戻すか」ではなく、「成熟した循環をどう設計するか」です。規模の縮小を前提にしたとき、初めて見えてくる豊かさがある——それがPGCLの問いが照らし出す、最も挑発的な命題です。