朝、目が覚める。肺が勝手に動いて空気を取り込み、心臓が一度も頼んでいないのに脈を打ち続けている。窓から差し込む光も、昨夜誰かが作った食事も、自分が「受け取ろう」と決める前にすでにそこにある。ところが私たちはたいてい、その事実に気づかないまま一日を始める。「もっと得なければ」「まだ足りない」という感覚で動き出す。哲学者ガブリエル・マルセルは、自己を閉じた所有物として扱う生き方と、世界に向けて開かれた存在として生きる生き方を鋭く対比した。与えられていることへの気づきは、受け取る技術ではなく、存在の様式そのものを問い直す契機である。
朝の台所で湯を沸かしながら、ふと「この水はどこから来たのか」と思ったことがある。蛇口をひねれば出る水を、私は一度も「与えられている」とは感じていなかった。それは当然の権利か、あるいは対価を払った商品として認識していた。等価交換の枠組みに収まっていると、与えられているものは見えなくなる。見えないのではなく、見ないように訓練されているのかもしれない。存在することそのものが、すでに膨大な贈与の上に成り立っているという事実は、日常の忙しさの中で静かに隠れていく。
フランスの哲学者ガブリエル・マルセル(1889-1973)は、1935年の著作『存在と所有』の中で、人間の生き方を「所有様式(avoir)」と「存在様式(être)」に分けた。所有様式では自己は閉じた容器であり、外から得るものを蓄積することで安心を得ようとする。存在様式では自己は世界に向けて開かれており、他者や環境から与えられることを受け入れる「受容性(disponibilité)」が中心に置かれる。マルセルにとって受容性とは受動的な服従ではなく、自らを開いておく積極的な構えであった。与えられていることへの気づきは、この構えを取り戻す入口となる。
「見たいものしか見ない」という経験には、神経科学的な根拠がある。1999年、米イリノイ大学のダニエル・シモンズとクリストファー・チャブリスは、バスケットボールのパス回数を数えるよう指示された被験者の半数以上が、画面を横切るゴリラの着ぐるみに気づかないことを実証した(Perception誌掲載)。注意が特定の目標に向けられると、それ以外の情報は脳内で処理されても意識に上らない。与えられているものへの気づきが薄れるのは、性格の問題ではなく注意の構造の問題である。つまり、気づく回路を意図的に作ることができる。
では、どうすれば与えられていることに気づく回路を開けるのか。米カリフォルニア大学デイヴィス校のロバート・エモンズとマイケル・マカロウは2003年、週に一度「感謝できる出来事」を書き留めるだけで、主観的ウェルビーイングと向社会行動が有意に向上することを示した(Journal of Personality and Social Psychology掲載)。難しい変容は要らない。今日、自分が「当然」と思っているもの——食事、言葉を交わせる相手、眠れる場所——をひとつ取り出して、それが与えられたものだと一度だけ認識してみる。その小さな認識の転換が、見えなかったものを可視化し始める。
一度受け取ってみると、次の問いが生まれる。これは自分に合うか、手放すべきか。受け取ることは服従ではなく、選択の前段階である。現象学者エドムント・フッサールは1920年代の講義「受動的綜合」の中で、意識が能動的に判断する以前に、すでに経験が受動的に与えられているという構造を記述した。私たちは何かを「選ぶ」前に、すでに膨大な与えを受けている。その与えを一度引き受けてから、吟味し、手放す。この往復運動は自律性を失わせるどころか、選択の射程を広げる。受け取ることを恐れていたとき、選択肢はずっと狭かったのだと気づく。
与えられていることへの気づきは、感謝の義務を生まない。マルセルの言う受容性は、恩着せがましい関係を前提としない。ただ、世界がすでに自分に向かって開いていたという事実を認識することで、安心の根拠が外部の条件から自己の存在そのものへと移動する。足りないから受け取るのではなく、すでに与えられているから選べる——この転換は、等価交換の論理では決して到達できない地点である。