「人新世の資本論ーコモンズと新しい豊かさ」のパネルを終えた夜、頭に残ったのは一つの問いだった。私有でも国有でもない第三の道を語るとき、私たちは何を守ろうとしているのか。土地、データ、知識、文化――それらを「みんなのもの」と呼ぶのは易しい。しかし、誰がルールをつくり、誰が排除され、誰の利益に資源が向かうのかを問わなければ、コモンズは美しい理念のまま空洞になる。コモンズの本質は所有形態ではなく、ガバナンスにある。そしてガバナンスの問いは、自由とは何かという哲学の問いと、実は同じ根を持っている。
パネルの会場で、私は一枚の図を思い浮かべていた。横軸に「欲望」と「手段」、縦軸に「内部」と「外部」を置いた四象限。資本主義も社会主義も、どちらも Means × External の象限に収まりやすい。資源をどう配分するかを外部の論理――市場価格か計画指令か――に委ねる点で、両者は鏡像関係にある。コモンズはその外側の領域に位置する。「私たちはどのような社会をともにつくりたいのか」という問いを制度設計の中心に据えることで、第三の道を開こうとする試みだ。
17世紀イングランドの囲い込み(エンクロージャー)以来、資本は繰り返しコモンズを私有化してきた。農地が牧羊地に変わり、入会権を持つ農民が土地から切り離された歴史は、現代のプラットフォーム独占と構造を同じくする。データ、アルゴリズム、知識が一部の企業に集中するとき、人々は資源を「使えない」のではなく、「使わせてもらう」立場に置かれる。この非対称な依存関係こそ、コモンズが解体しようとしている権力の形である。
哲学者フィリップ・ペティット(プリンストン大学)は1997年の著作『Republicanism』で、自由を「干渉の不在」ではなく「恣意的支配への従属の不在(non-domination)」として再定義した。驚くべき点は、実際に干渉されていなくても、いつでも恣意的に干渉できる構造的地位に置かれること自体が不自由を生む、という主張である。プラットフォームが今日は自由に使わせていても、利用規約を一方的に変更できる立場にある限り、ユーザーは支配下にある。コモンズのガバナンスは、この構造的従属を制度的に解体する試みとして読める。
では、コモンズは具体的に何を変えるのか。liberty(支配されない自由)を守るだけでは十分ではない。人々が実際に選び、学び、試し、やり直せる力――freedom――を広げる設計が必要だ。データ信託(Data Trust)は個人データを受託者が集合的に管理し、本人の利益のために運用する制度設計であり、liberty と freedom の両方を同時に実装しようとする試みの一例だ。誰がデータを持つのか、誰が意思決定するのか、利益は誰に戻るのかを明示的に設計することで、依存を参加に変える。
しかしコモンズは、設計するだけでは動かない。ヨカイ・ベンクラー(ハーバード大学ロースクール)が2002年に示したように、Linuxやウィキペディアが成立したのは、貢献の粒度が細かく、モジュール化によって統合コストが低く保たれたからだ。技術的アーキテクチャが制度の持続可能性を左右する。同時に、マッシモ・デ・アンジェリスが指摘するように、コモンズは資本主義の外部に存在するのではなく、資本主義と緊張関係を保ちながら内部で生き延びる。価値実践・境界設定・再生産の三要素を絶えず更新し続けることが、コモンズを制度として機能させる条件である。
コモンズとは、資源の所有を問う制度ではなく、誰が支配できないかを問う制度だ。ペティットの非支配的自由を制度に翻訳するとき、コモンズは「みんなのもの」という牧歌的な共有から、恣意的権力に対する構造的な対抗へと姿を変える。市場も国家も手放さず、しかしどちらにも全権を委ねない。この緊張を維持し続けることが、自由を守る唯一の方法かもしれない。