3歳の子どもが誕生会で「大きくなったらかわいい犬になります」と宣言したとき、その場にいた大人たちは微笑ましく感じた。しかし微笑みの後に残るのは、一つの問いです。その子はみんなに愛されるから犬になりたかったのだが、もしかしたらSNSで流れてくる犬の動画を見て、犬を「なりたい何か」として受け取ったのではないか。誰も教えていないのに、アルゴリズムが届けた映像が夢の素材になった。同じことが名作アニメの世界でも起きています。学習塾のCMで「ハイジ」と「おじさん」を先に知った子どもが、アニメ本編を見て「トライのおじさんが出てこない」と首をかしげる。大人にとっては懐かしい感動の物語が、子どもにとっては広告の延長として最初から書き換えられている。これは個々の企業の倫理の問題ではなく、子どもの想像力という共有資源を、大人の経済が一方的に利用し続けるという構造の問題です。
補助線の1本目を引く前に、まず「ハイジ」の子どもの経験を丁寧に追ってみましょう。その子にとって、アルプスの山も山羊も、ペーターもクララも、CMで繰り返し流れる「おじさん」の文脈の中に最初から置かれています。大人が「あれは本来こういう物語だ」と説明しても、子どもの脳内にはすでに先行する文脈が刷り込まれている。発達心理学者のレフ・ヴィゴツキー(1896-1934)は、子どもが独力では届かないが、有能な他者との相互作用があれば届く認知の領域を「最近接発達領域(ZPD)」と呼びました。日本語では「潜在的発達領域」とも訳され、子どもが今いる地点と、次に行けるはずの地点の間にある可能性の帯を指します。問題は、その帯の中に大人が何を置くかです。感動の物語を置くか、広告のキャラクターを置くか。子どもの脳は与えられた素材で足場を組むため、最初に置かれた素材が「本物」になります。
「本物」として刷り込まれた文脈は、その後の読み替えを驚くほど困難にします。この困難さを、資源管理の言葉で言い直すことができます。ガレット・ハーディンは1968年に学術誌「サイエンス」で「コモンズの悲劇」を定式化しました。共有牧草地に各牧夫が自分の牛を1頭ずつ追加していくと、個々の判断は合理的でも、全体として牧草は枯渇するという命題です。子どもの想像力という共有資源に置き換えると、構図はそのまま重なります。企業は自社のブランド認知を高めるために、子どもが親しむキャラクターの文脈を1回ずつ「利用」します。1社の判断は合理的でも、ハイジが塾に、コナンが別の商品に、犬がSNSの広告素材に次々と置き換えられていくとき、子どもの想像力の牧草地は静かに踏み荒らされていきます。
オストロムが示した「利用者自身によるルール設計」という知恵は、子どもの発達の文脈では別の問いを呼び起こします。ヴィゴツキーのZPDにおいて、子どもの潜在的発達領域に足場を置く役割を担うのは、親・保育士・教師といった「有能な他者」、つまり大人です。ところが、CMを制作し、SNSのアルゴリズムを設計し、子どもの目に届く映像を選択しているのも、同じ大人です。足場を組むべき存在が、足場の素材を商品に替えている。書き手がこれまでの探求で辿り着いた問い、「子どもの夢を『保護』する大人が夢の構造を壊す逆説」は、まさにここに核心があります。キャロル・ギリガンが1982年に提唱した「ケアの倫理」は、関係性と応答性に根ざした倫理を正義・権利の倫理と対置しました。子どもへのケアは、単なる善意ではなく、権力と不平等が深く絡み合う営みだとギリガンは言います。「コナンが好きな子どもに向けてCMを打つ」という行為は、関係性の非対称な権力行使です。
「子どもが喜んでいる」という解釈の危うさは、語彙の問題として捉え直すと輪郭が鮮明になります。ヴィゴツキーは、子どもの思考は言語と不可分であり、与えられた語彙の豊かさが思考の射程を決めると論じました。夢を語る語彙も同じです。「大きくなったらかわいい犬になります」と語った3歳の子どもは、犬という生き物の生態を知っているのではなく、SNSが繰り返し見せた「かわいい犬の映像」という語彙で夢を組み立てました。アルゴリズムが届ける映像は、子どもが自ら選んだものではなく、大人の経済が選んで差し出したものです。ブルデューが1970年代に論じた「文化的再生産」の枠組みを借りれば、どの語彙が子どもの想像力の中心に置かれるかは、文化的権力の配置によって決まります。名探偵コナンの語彙が「謎を解く知的興奮」ではなく「特定商品の記号」として定着するとき、子どもはその語彙で謎を解こうとはしなくなります。
語彙の射程が狭まることへの危機感は、しかし「子どもをメディアから遠ざけよ」という単純な処方箋には向かいません。オストロムが示したのは、排除でも国家管理でもなく、利用者自身による境界とルールの設計でした。子どもの想像力というコモンズに引き寄せれば、問いはこうなります。誰が境界を引き、誰がルールを設計し、誰が監視するのか。保育士が「トライのおじさんが出てこないね」という子どもの言葉を記録し、保護者と共有し、放送倫理の議論に持ち込む。そのような小さな「利用者自身によるルール設計」の積み重ねが、コモンズを守る実践になり得ます。ケアの倫理の言葉を借りれば、それは応答性の実践です。子どもの言葉に応答し、その言葉が生まれた文脈を問い返す。大人が経済の論理に乗って差し出した語彙を、子どもが受け取った瞬間に気づき、別の語彙を手渡す。