就職活動の面接で、こんな言葉を聞いたことはないでしょうか。「どんな仕事も、誰かの役に立っている」。その言葉は温かく、励ましのように響きます。しかし、ある夜、スマートフォンの画面を閉じられずにいる人のことを想像してみてください。課金ボタンを押すたびに報酬感が走り、気づけば月収の半分が消えている。その取引には対価があり、需要があり、供給があります。では、そのビジネスは「役に立った」のでしょうか。直感が「違う」と言うなら、その違和感こそが問いの入り口です。「役に立つ」と「善い」は、私たちが思っているよりずっと遠い場所にあるのかもしれません。
「すべての仕事は誰かの役に立っている」というフレーズは、キャリア論の定番として繰り返されてきました。顧客が対価を払う——それが有用性の証拠だ、という論理です。しかし、ギャンブル依存を助長するアプリ、認知バイアスを利用した過剰課金ゲーム、詐欺まがいの情報商材。これらにも対価があり、需要があります。取引が成立しているという事実は、その行為が善いことである根拠にはなりません。この等式の亀裂から、問いは始まります。
近代以前、職業の正当性は共同体への奉仕や神への献身によって測られていました。職人は作品の卓越性に誇りを持ち、医師は患者の回復に使命を見ていた。産業革命以降、対価=有用性という等式が常識化します。アダム・スミスが描いた「見えざる手」は、個人の利己心が社会全体の利益を生むという洞察でしたが、それはいつしか「市場で売れるものは善い」という粗い読み替えへと変質しました。市場的有用性が道徳的善性を代替するようになった——この歴史的すり替えが、現代の混乱の根にあります。
1981年、英エジンバラ大学の哲学者アラスデア・マッキンタイアは『After Virtue』で「実践(practice)」という概念を提唱しました。実践とは、その活動固有の卓越性——内的善(internal goods)——を追求する行為です。医療の内的善は患者の回復であり、教育の内的善は学習者の知的成長です。報酬や地位といった外的善だけを最大化し、内的善を持たない活動は「実践」ではなく「技術的操作」に堕する、とマッキンタイアは言います。依存性を強化する設計で収益を上げるビジネスは、まさにこの操作の典型です。顧客が対価を払っていても、内的善が不在なら、その活動は職業的実践の名に値しません。
では、今日から試せる問いがあります。自分の仕事が「誰の役に立っているか」を考えるとき、その「誰か」の範囲を意図的に広げてみてください。顧客個人→コミュニティ→将来世代へと同心円を広げたとき、答えはどう変わるでしょうか。インド出身の経済学者アマルティア・センは、人の生の豊かさを「選択肢の数」ではなく「実質的に生きられる可能性(ケイパビリティ)」で測ることを提唱しました。依存症や認知操作によって引き出された「需要」は、当人のケイパビリティを収縮させます。「顧客が望んでいる」という言葉の背後に、その人が本当に生きたい生を縮めているかどうかを問うこと——それが、善さを測る補助線になります。
「社会的に良いこと」の定義は、誰が決めるのでしょうか。ESGやインパクト投資は、善の基準を企業側が先取りする動きでもあります。インパクト測定の標準化をめぐる争いは、価値の定義をめぐる権力の闘争です。哲学者エリザベス・アンダーソン(米ミシガン大学)は、価値には市場では通約できない多元的な次元があると論じました。さらに「道徳的運(moral luck)」という概念が示すように、善意で始めた仕事が組織の構造を通じて社会的害悪を生産することがあります。個々の従業員が「役に立っている」と感じながら、組織全体として傷つきを生産する——この構造的共犯性を直視しないかぎり、職業倫理は表層にとどまります。
「役に立つ」と「善い」は同じではない。この命題は、仕事の意味を問い直す起点です。善さの基準を問い続けること自体が、マッキンタイアの言う内的善の一部です。問いを止めた場所から、凡庸な害悪は静かに始まります。