2021年の夏、北海道の湿原を歩いたとき、足元の泥炭が静かに沈む感触があった。その湿原が炭素を蓄え、数百種の生き物を養っていることは知っていた。しかし知識は、その場で何かを「しなければ」という衝動には変わらなかった。帰宅後に読んだIPCCの報告書も、同じだった。事実は積み上がり、理解は深まる。それでも、体はなかなか動き出さない。気候変動の時代に続いて、今度は生物多様性の損失が問われている。知ることと動くことの間には、何か埋めがたい溝がある。その溝の正体を、哲学と生態学と社会科学の交差点から問い直してみたい。
生物多様性の損失は、二酸化炭素排出量とは根本的に異なる難しさを持つ。CO₂は一つの数値で世界を横断できるが、生物多様性は地域ごとの種構成、土壌微生物の多様性、送粉サービスの連鎖など、無数の文脈依存的な指標から成る。2022年に採択された昆明・モントリオール生物多様性枠組み(GBF)の「30×30目標」——2030年までに陸と海の30%を保護区にする——は、単一の数値目標に見えて、実は「何を保護と呼ぶか」という権力的な問いを内包している。指標を決める行為そのものが、誰かの利益と誰かの不可視化を同時に生む。
IPCCが示した教訓は、科学的コンセンサスの共有が政策合意を生む一方で、個人や企業の行動変容には直結しないという事実だ。認知心理学はこれを「知識-行動ギャップ(knowledge-action gap)」と呼ぶ。米ハーバード大学の科学史家ナオミ・オレスケスは、科学的否定論が単なる無知ではなく、産業的・政治的利益に根ざした組織的な疑念の生産であることを示した。つまり知識の欠如が問題なのではなく、知識の受容を阻む制度的・経済的構造が問題なのだ。情報を増やすだけでは、その構造は微動だにしない。
では、強い「想い」があれば人は動くか。ここに別の罠がある。米イリノイ大学のリンダ・スキトカは2010年、道徳的確信(moral conviction)を持つ人ほど妥協を裏切りと感じ、対話より対立を選ぶ傾向があることを実証した(Psychological Inquiry, 21(2))。生物多様性保全の文脈に置き換えれば、「原理主義的な正義」は反感を生み、連帯の輪を狭める。想いの強さは行動の燃料になる一方で、他者の参加を閉じるドアにもなる。正義の確信が社会的孤立を招くという逆説は、環境運動の歴史が繰り返し証明してきた。
ここで哲学者ハンス・ヨナス(Hans Jonas)の「責任の原理(Das Prinzip Verantwortung, 1979)」が示す第三の動機論が浮かび上がる。ヨナスは、行動の根拠を「知っているから」でも「信じているから」でもなく、「存在への責任として」に置いた。未来世代や非人間存在への先行的責任——それは知識より先に、帰属感として身体に宿る。湿原の泥炭を踏んだとき感じた沈み込みは、知識ではなく責任の予感だったのかもしれない。生物多様性の問いは、この帰属感をどう社会的な行動へと変換するかという設計の問題でもある。
ハンナ・アーレントは1958年『人間の条件』で、人間の活動を「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」の三層に分けた。科学的知識の共有は「仕事」の次元にとどまり、真の政治的行為——未来を創る「活動」——は複数性(plurality)の中でのみ生まれると彼女は論じた。データを示し、目標を掲げ、合意を取り付けるプロセスは「仕事」だ。しかし生物多様性の損失という問いに向き合うとき、私たちに必要なのは、異なる立場の声が公共空間で語りかけ合い、応答し合う「活動」の次元である。対話は手段ではなく、行動そのものだ。
知識は地図であり、想いは燃料だ。しかし地図も燃料も、複数の人間が公共空間で声を交わす場なしには、行動へと転化しない。生物多様性の損失という問いが気候変動より難しいのは、指標の多元性のためだけではない。それが「誰の自然か」「誰の損失か」という、承認と帰属をめぐる問いを不可避に含むからだ。緊急性は本物だが、拙速な単一解は反感と分断を深める。今この瞬間に必要なのは、速度を上げることではなく、複数の声が出会える場を意図的に設計することだ——それ自体が、最も急を要する行動である。