蝉が鳴き出した夜、ふと気づいた。今年はホタルを見ていない。あの虫が飛ぶのは、梅雨の合間の、曇りとも晴れとも言えない宙ぶらりんな夜だった。降れば土砂降り、晴れれば焼けるような今年の夏に、その「間」の夜は来なかった。ホタルがいなかったのではなく、ホタルが現れるための「間」が消えたのだと気づいたとき、それは人と人の話とも重なった。関係が壊れるとき、何かが欠けるのではない。「間」そのものが失われるのだ。
日本語には奇妙な二重性がある。「人」は個体を指し、「人間」は人の間、つまり関係そのものを指す。同じ存在を語るのに、一方は孤立した実体として、他方は「間」の中に置かれた存在として名指す。この語源の裂け目に、1934年に倫理学者・和辻哲郎(京都帝国大学)は立ち止まった。著書『人間の学としての倫理学』で彼は、人間とは「個人でも社会でもなく、その間柄そのものである」と論じた。人は関係の外に立つことができない。「間」が壊れることは、人間性そのものの喪失である。
この洞察は、遠い哲学の話ではない。生態学者カミール・パーミサン(テキサス大学)が2003年に『Nature』誌に発表したメタ分析は、1,700種以上の生物で春の到来が平均2.3日/10年ずつ早まっていることを示した。ホタルが飛ぶ夜は、気温・湿度・月明かりが重なる「間」の産物だ。その「間」がずれるとき、生き物同士のタイミングが噛み合わなくなる。受粉者と花、捕食者と被食者、そして人間の記憶と季節の節目。フェノロジー(生物季節学)の乱れは、関係の文法を書き換える。
哲学者マルティン・ブーバーは1923年の著書『我と汝』で、人間の出会いを二種類に分けた。「我と汝」は対象化しない真の出会いであり、「我とそれ」は相手を道具として扱う関係だ。現代の気候変動と分断が重なる時代に、この区別は鋭さを増す。ホタルを「見る」ことと、ホタルが「飛ぶ夜に共にいる」ことは違う。後者においてのみ、人は自然と「我と汝」の関係に入る。その夜が来なければ、呼びかけも応答も生まれない。「間」は待つことでしか開かれない。
では、失われた「間」を取り戻すことはできるか。生態学の言葉に「フェノロジカル・ミスマッチ(季節的ずれ)」がある。種と種のタイミングがずれると、一方が現れても他方がいない状態が常態化する。人間関係にも同じことが起きる。誰かが声を上げるとき、もう一方がすでに去っている。互酬性(reciprocity)の連鎖は、タイミングが合って初めて成立する。小さな実践として、今夜、誰かと同じ空を見上げてみてください。返答を期待せず、ただ「間」を共有することから始まる回復がある。
南部アフリカの哲学的概念「ウブントゥ(Ubuntu)」は「私はあなたたちがいるから私である」と語る。個人の自律より関係の先行性を置くこの思想は、和辻の間柄論と驚くほど重なる。しかし現代の気候変動研究が示すのは、この「間」が人間同士にとどまらないという事実だ。マルチスピーシーズ人類学者アナ・チン(カリフォルニア大学サンタクルーズ校)は、人間の存在が他種との「もつれ合い(entanglement)」の中にあると論じる。ホタルも蝉も、人間の季節感・記憶・共同体的リズムを共同で構成する存在だ。
「間」は守るものではなく、絶えず作り直すものだ。ホタルが飛ばなかった今年の夏は、関係が一度断ち切られた夏として記憶に刻まれる。だが和辻が示したように、人間は「間」の外に立てない。ならば問いはこうなる——私たちは、どんな「間」を次の世代に手渡せるか。蝉が来年も鳴くかどうかより、来年の蝉の声を誰かと一緒に聞けるかどうかの方が、ずっと根本的な問いかもしれない。