森の中を歩いていると、木漏れ日の角度、土の湿り気、鳥の声の重なりが、ひとつの「良さ」として身体に届く。その感覚を誰かに伝えようとした瞬間、言葉は滑る。「癒し効果がある」と言えば何かが失われ、「炭素固定量は年間〇トン」と言えばさらに別の何かが消える。測ろうとするたびに、測りたかったものが形を変える。この経験は個人的な感傷ではなく、計測という行為が孕む根本的な問いを指し示している。価値を数字に変えることは、価値を発見する行為なのか、それとも別の価値を作り出す行為なのか。その問いに、経済学・哲学・科学史の三方から光を当ててみたい。
1953年、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは『哲学探究』の中で「家族的類似(family resemblance)」という概念を提示した。「ゲーム」という語に共通する本質はなく、ゲームと呼ばれるものは互いに部分的に重なり合う特徴の網の目でつながっているに過ぎない、と彼は言う。「価値」という語も同じ構造を持つ。森林の価値、交通インフラの価値、人を繋ぐアルコールの価値——これらを貫く単一の本質は存在しない。計測の精緻化は「価値の本質」を捕捉しようとするが、ウィトゲンシュタイン的には、それは言語ゲームを越境するカテゴリー・ミステイクである可能性がある。
GDPという計測装置は、1934年にサイモン・クズネッツが米国議会への報告書として設計した。彼は当初、家事労働や余暇を算入しようとしたが、政策立案者の要請により意図的に除外した。測定の枠組みは中立ではなく、設計者の価値観と政治的文脈を最初から埋め込む。科学史家テオドール・ポーター(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)が1995年の著作『Trust in Numbers』で示したように、定量化は客観性の外装をまとうことで、特定の価値判断を「事実」として流通させる社会的装置として機能する。計測の歴史とは、誰の価値観を中心に据えるかという権力闘争の歴史でもある。
哲学者ルース・チャン(オックスフォード大学)は、異なる価値領域を単一尺度で比較しようとする試みに対し、「通約不可能性(incommensurability)」の問題を精緻化した。命と経済成長、友情と生産性、生態系と開発——これらは「どちらが優れているか」を決める共通の尺度を持たない。しかしチャンはそこで思考を止めず、「on a par(同等に位置する)」という第三の関係を提案する。優劣でも等価でもなく、異なる次元で肯定できる関係性だ。この概念は、計測が不可能な領域においても合理的な選択と対話が可能であることを示す。測れないことは、判断できないことではない。
では、測ることを諦めるべきか。その問いに、環境経済学は逆説的な答えを返す。1997年、ロバート・コスタンザらは世界の生態系サービスの経済的価値を33兆ドルと算出し、Nature誌に発表した。数値の粗さへの批判は多かったが、この試みが示したのは「測らなければ政策の俎上に載らない」という実践的真実だった。測ることで初めて守れるものがある。気候変動対策における炭素価格、生物多様性保全における影の価格——これらは計測の精緻化なしには政策介入の根拠を持てない。計測は価値を歪めるが、計測なしには価値は政治的に無力である。この緊張こそが、現代の非財務価値論の核心にある。
グッドハートの法則は、「指標が目標になった瞬間に良い指標でなくなる」と言う。計測の精緻化が進むほど、計測対象は計測に最適化され、計測が捕捉しようとしていた本来の価値から乖離する。学校の評価指標がテストスコアになれば、教育の豊かさはスコアに還元され、スコアに映らない知的好奇心や倫理的感受性は周辺化される。これは計測の失敗ではなく、計測という行為の文法的帰結だ。ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論に立ち返れば、計測は特定の言語ゲームの中での合意を生成するが、その合意は別の言語ゲームで生きている価値を消去することで成立する。計測の精緻化は発見ではなく、特定の世界観の制度化である。
資本主義の精緻化論者と批判者のすれ違いは、同じ山を登っているかどうかの問題ではない。彼らは異なる言語ゲームに生きており、「価値」という語で異なるものを指している。その非対称を緩和する道は、より精密な計測でも、計測の放棄でもない。どの言語ゲームの中で計測が行われているかを、計測する者自身が自覚することだ。測ることを研ぎ澄ます行為は、測れないものを救う手段である前に、自分がどの世界観の中で測っているかを問い続ける行為でなければならない。