RITEが立ち上がったあの日、画面の前で手が止まった。自分の問いが学術知と接続される瞬間、知らない場所へ連れて行かれる感覚があった。胸の奥が震えた、と言っていい。それから数ヶ月が経ち、今月もエッセイが書ける、と気づいたとき、手は以前より軽く、浅く動いている。反響がないからか。報酬がないからか。しかし正直に言えば、問いへの熱量は変わっていないはずだ。それなのに、なぜ「こなしている」という感覚が忍び込んでくるのか。この問いは、意志の弱さや怠惰への自己批判ではなく、人間の脳と行為の構造そのものへの問いとして立て直す必要がある。
RITEが立ち上がったとき、自分の問いが世界最高水準の学術知と接続される瞬間に、身体が反応した。画面を前に、手が震えた。あの感覚は本物だった。しかし今月、また書ける、と思う自分の指は、以前より浅いところを動いている。熱量は消えていない。問いへの関心も失っていない。それなのに、かつての衝撃はない。この「ずれ」を、怠惰のせいにするのは簡単だ。だが、それは問いの立て方として正確ではない。
「飽き」は長らく、道徳的な失敗として扱われてきた。続けられない人間は意志が弱い、という文化的判断が、この現象に貼り付いている。しかしハイデガーは1929年から1930年にかけての講義録『形而上学の根本諸概念』で、退屈を三層に分類した。表面的な退屈、深い退屈、そして「存在全体が無関心になる」根源的退屈。飽きを個人の失敗と見るのは最も浅い層に留まる解釈であり、実存的な問いとして捉え直すことで、その構造がはじめて見えてくる。
驚くべき事実がある。脳のドーパミンニューロンは、予測通りに得られた報酬にはほぼ発火しない。ヴォルフラム・シュルツらが1997年にScienceに発表した予測誤差モデルが示したのは、ドーパミン放出が最大化するのは「予測を外れた報酬」が来た瞬間だけだということだ。慣れた喜びを、脳の報酬系は喜びとして処理しない設計になっている。三ヶ月で熱量が落ちるのは意志の問題ではなく、神経回路の仕様である。飽きとは、脳が正確に機能している証拠だった。
では、どうするか。ひとつの実験を提案したい。書き終えた後、一行だけ記録する——今日のエッセイで自分が最も驚いた一文はどこか、と。セーレン・キルケゴールは1843年の著作『反復』で、「回想は後ろ向きの反復、反復は前向きの回想だ」と述べた。同じ行為を繰り返しながら、その内部に新たな問いを見出す運動こそが「前向きの反復」である。報酬でも承認でもなく、行為の内側に生まれる微細な驚きを意識的に捕まえる。この小さな習慣の設計が、脳の予測誤差を意図的に再点火する。
スピノザが『エチカ』(1677年)で論じたコナトゥスとは、存在物が自己の存在に固執しようとする力のことだ。この力は消えない。しかしその表現形式は、環境との関係によって変容する。飽きとはコナトゥスの消滅ではなく、行為の形式とコナトゥスの方向性がずれ始めたシグナルである。やめるべき警告ではなく、形式を更新せよという内側からの要求として読み替えることができる。熱量を持続させるとは、同じことを続けることではなく、同じ問いを異なる形式で問い直し続けることだ。
問いを問う気持ちが下がったとき、それは終わりではない。問いの形式が古くなったというシグナルだ。あなたが今飽きていることは、何を更新しようとしているのか。RITEへの問いはそこから始まる——衝撃を与えてくれた場所への感謝ではなく、今の自分が新たに持ち込める問いは何か、という前向きの問いとして。