1684年、渋川春海は空を測り直した。中国から伝わった暦と、日本列島で実際に観測される天体や季節とのズレを、日本の自然に合わせて補正したのである。ほぼ同じ頃、契沖は言葉を読み直していた。悉曇学や漢籍の知を手がかりに、後世の解釈に覆われた『万葉集』の古語を、その時代の意味へ戻そうとした。一人は暦と自然のズレを、もう一人は古典と解釈のズレを直した。二人に直接のつながりはない。だが、外来の高度な知を使うことで、初めて「日本の自然」と「日本の言葉」が輪郭を持った点は共通する。七十二候の日本化と国学は、この二つの読み直しからどのようにつながるのだろうか。
その出発点は、江戸よりはるか前にある。『古今和歌集』では、春の訪れから花の盛りと散華、秋の到来から紅葉と冬枯れへと、季節の進行そのものが歌集の構造になっていた。桜、霞、鶯、時雨、鹿、雪は、自然物であると同時に、恋、別れ、孤独、記憶を呼び起こす記号になった。さらに『新古今和歌集』の時代に本歌取りが洗練されると、目の前の風景は、過去の歌を響かせながら読まれるようになる。人々は自然を直接見るだけでなく、先人が何を見て、どう心を動かしたかを重ねて見た。七十二候が自然変化を配置する「時間の索引」なら、和歌は季節に感情・物語・場所を結びつける「意味の索引」だった。平安期までに、日本の季節を読む文化的なデータベースはすでに形成されていたのである。
しかし、季節を分ける枠組みそのものは中国から来た。二十四節気と七十二候は、中国大陸の天文観測と物候をもとに成立し、日本では長く輸入された暦が使われた。ところが、暦の計算と実際の天体運行には誤差が蓄積し、候に現れる動植物や季節感も日本列島の実態とは一致しなかった。渋川春海は授時暦など中国の暦学を学び、観測と計算を日本に合わせて組み直し、貞享暦を成立させた。ここで重要なのは、中国の知を捨てたことではない。その精度を借りてズレを測り、外来の時間体系を日本の空と風土へ接続し直したことだ。七十二候の日本化も同じ方向を向いていた。自然を細かく見る感性が突然生まれたのではなく、輸入した分類体系を、列島の動植物と季節の移ろいに合わせて編集し続けたのである。
同じ時代、契沖が直そうとしたのは、古典と後世の解釈のズレだった。国学は今日、外来思想を退けて「純粋な日本」を求めた学問として語られがちである。しかし、その出発点にいた契沖は真言宗の僧侶であり、悉曇学、仏教学、漢籍の知に深く通じていた。『万葉代匠記』では、儒教や仏教の道徳を歌に当てはめるのではなく、古語の用例、音、表記をたどり、歌が詠まれた時代の意味を本文の内側から復元しようとした。国学は最初から、外来知を排除する運動ではなかった。外部の言語知を使って日本語を客観視し、後世の解釈の下に埋もれた古代の言葉を発見する文献学だった。春海が中国暦によって日本の空を読み直したように、契沖はインドと中国に由来する知によって古代日本語を読み直したのである。
契沖の段階で中心にあったのは、言葉を正確に読むための実証的な文献学だった。ところが賀茂真淵は、『万葉集』の言葉づかいから、古代人の率直で力強い精神を読み取ろうとした。季節の言葉は、自然や農事を記録する語彙から、「古代の人々がどのように世界に触れたか」を示す証言へと変わる。本居宣長はさらに、『源氏物語』や『古事記』を通じ、物事に触れて心が動くことを「もののあはれ」として思想化した。桜が散ることや秋が深まることに心を動かされる感覚は、単なる美的嗜好ではなく、人間と文学を理解する中心原理になった。ただし、それは古代から同じ形で保存されていた心ではない。国学者が古典を選び、読み、意味づけることで、江戸時代に構成された「古代人の精神」であり、「日本の心」でもあった。
こうして再解釈された季節の言葉は、学者の書斎だけにとどまらなかった。暦の配布網、寺社、木版出版、俳諧結社、歳時記が、それを地域を越えて流通させた。メアリー・エリザベス・ベリーが『Japan in Print』で描いたように、江戸の出版市場は、人々が同じ地名、歴史、暦、季節語を参照するための情報基盤をつくった。また、ハルオ・シレーンは『Japan and the Culture of the Four Seasons』で、平安貴族の四季表現が、江戸の俳諧と商業文化を通じて広範な伝統へ再編された過程を論じている。地域ごとに異なる農事や物候が消えたわけではない。しかし、印刷された暦と季語が、その違いの上に共有可能な「日本の季節」を重ね、茶、菓子、着物、工芸、贈答へ移植できる文化的コードに変えていった。
七十二候と国学の接点は、どちらかが他方を生んだことにあるのではない。両者は、すでに蓄積されていた自然観察と言葉の記憶を、日本の自然と古典に即して読み直す、別々の編集運動だった。中国由来の暦法は、日本の空と物候に合わせて組み替えられた。和歌に積み重なった季節語は、国学によって古代人の精神や日本的な人間理解の証拠へと読み替えられた。そして出版、俳諧、寺社、商業が、それを生活の細部へ運んだ。「日本人は自然に敏感だった」という説明は、この長い編集の過程を見えなくする。日本の季節感は、自然から直接生まれたものでも、外来文化の模倣でもない。自然環境、外来の分類知、和歌の記憶、国学の再解釈、社会的流通が、千年以上かけて共同編集した文化的なOSなのである。