大型商業施設に入れば、服も本も薬も惣菜も一気に済ませられる。スーパーでは、必要なものを迷わず取り、セルフレジで会話なく出られる。その便利さに救われる日がある。一方で、荒川沿いをあてもなく歩くと、川幅の広さに合わせて気持ちの速度が落ちていく。飲み横で入るつもりのなかった店に入り、隣の人の話が耳に入ってくる夜もある。街の心地よさは、速く進めることだけではなく、遅くなれる場所が近くにあることから生まれている。
駅前の大型商業ビル、路地に並ぶ個人店、飲み屋横丁、河川敷の土手。これらが同じ生活圏に近接している街では、人は一日の中で時間の速さを切り替えられる。便利さは、生活を軽くする。遠回りは、生活に余白を戻す。ジェイン・ジェイコブズは『アメリカ大都市の死と生』で、都市の活力を単一用途の整備ではなく、多様な用途、古い建物、小さな区画、歩行者の接触が重なる状態に見た。街の豊かさは、整った機能だけでなく、異なるリズムが近くにあり、用事のある人と、ただ居る人が同じ場所を使えることから生まれる。
だから、ここで問いたいのは「無駄な場所は大事だ」という話ではない。都市には効率も必要である。駅前の動線、商業施設、交通、チェーン店の安心感がなければ、毎日の生活は回らない。一方で、目的を決めずに入れる店、長居しても急かされない場所、何も起きない川沿いも必要である。哲学者ミシェル・フーコーは1967年の講演「他なる空間について」で、ヘテロトピア(Heterotopia)という概念を提示した。それらは都市の外部ではなく内部にありながら、支配的な秩序とは別の時間を保つ場所である。飲み横や路地や河川敷は、まさにこのヘテロトピアとして機能する。それらは都市の内部にありながら、効率性とは別の秩序を保つ場所である。
しかし、この状態はとても壊れやすい。遅い場所は、単体ではたいてい低収益で、低回転で、会計上は非効率に見える。けれど、その場所があることで街の印象は厚くなり、歩く理由が増え、住みたい、訪れたいという感覚が生まれる。都市経済の言葉でいえば、路地や個人店や河川敷は、周辺に正の外部性を生んでいる。店の売上や土地の収益には直接表れなくても、街全体の価値を押し上げている。問題は、その価値を場所自身がほとんど回収できないことにある。魅力は街全体に広がるが、上がった家賃は個々の店や住民に戻ってくる。
「ジェントリフィケーション」という言葉は、1964年に英国の社会学者ルース・グラスが、ロンドンの労働者階級の街区が中産階級に塗り替えられていく過程を描写するために生んだ。ルース・グラスがロンドンで見たのは、街の魅力をつくってきた人びとが、地価上昇によって押し出される過程だった。雑然とした飲み横や古い喫茶店が「面白い街」の評判をつくる。その評判が可視化され、家賃が上がり、評判の源泉だった店や人が維持できなくなる。都市地理学者ニール・スミスは1979年、地代格差仮説(Rent Gap Theory)を提唱し、現在の地代と、その土地が持つ潜在的地代の差が大きいほど、資本はそこに流入し再開発を加速させる。古い街が新しくなること自体が問題なのではない。遅い場所が、自分の生んだ魅力によって、自分の居場所を失うことが問題なのである。
さらに難しいのは、遅い場所を守るには、その価値を言語化しなければならないことだ。けれど、名前をつけ、指標にし、観光資源やブランドとして語った瞬間に、その場所は開発や消費の対象にもなる。シャロン・ズーキンが論じた都市の「真正性」の消費は、この危うさを示している。街らしさ、下町らしさ、ローカルらしさは、守るために語られる一方で、商品としても流通してしまう。何もしないで残すことはできない。しかし、価値を説明しすぎると、遅い場所は「収益化すべき資源」へと変わってしまう。街の魅力は、魅力として発見された瞬間に壊れ始める。
だから必要なのは、個人がもっと路地を歩こうという話だけではない。低収益だが街全体に価値を生む場所を、誰が支えるのかという問いである。コミュニティ・ランド・トラストは、土地の所有と利用を分け、地価上昇の恩恵を特定の所有者に独占させにくくする試みである。開発利益の還元、用途規制、公共空間の運営、低賃料区画の確保も選択肢になる。しかし制度の名前を並べる前に、考えるべきことがある。自分では儲からないが街を豊かにする場所の価値を、私たちはどう認め、誰の負担で残すのか。遅い場所を残すとは、都市の時間の多様性を残すことでもある。