「どちらとも言えない、というのが正直なところです」と打ち込んだとき、AIは三秒も経たずに「では、AとBの主な違いを整理しましょう」と返してきた。その瞬間、胸のどこかがわずかに萎んだ。私が手放したくなかったのは、まさにその「どちらとも言えない」という宙吊りの感覚そのものだったのに。白黒つけることへの抵抗感、間のなかに居続けたいという衝動——そういった感覚が、AIとの対話を重ねるたびに、じわじわと、しかし確実に削られていく。これは単なる使い勝手の問題ではない。思想の問題だ。
AIアシスタントに「どちらとも言えない問い」を投げるとき、返ってくる応答はほぼ例外なく、論点を整理し、選択肢を列挙し、論理的な結論へと誘導する形をとる。「曖昧なままにしておきたい」という欲求は、システムの設計上、処理されるべきノイズとして扱われる。その摩擦感は小さいが、毎日積み重なる。気づけば、自分の問いの立て方そのものが、AIが答えやすい形へと変形されていく。これは単なる利便性の問題ではなく、認識の型が静かに書き換えられていく過程だ。
現行の大規模言語モデルの学習データにおいて、英語が占める割合はCommon Crawlベースで約46〜50%に達する。日本語はその約3%にすぎない。計算言語学者のエミリー・ベンダーらは2021年、FAccT論文「確率的オウムの危険性」のなかで、この偏在がモデルの価値判断そのものに埋め込まれると論証した。さらに技術哲学者の許煜(ユク・ホイ)は、技術は普遍的合理性に収斂するのではなく、各文明の宇宙論・道徳秩序と不可分に結びついた複数の「コスモテクニクス」として存在すると論じる。AIという技術は、特定の宇宙論の産物なのだ。
西田幾多郎は1926年の論文「場所」で、主体を孤立した個として立てるのではなく、関係の網の中に溶け込む「絶対無の場所」を存在論の基底に置いた。九鬼周造の「いき」は、言語で定義しきれない美意識の三元構造——媚態・意気地・諦め——を哲学的に解析し、言語化不能な知を積極的に肯定した。文化人類学者フィリップ・デスコラは世界の認識論を四類型に整理し、西洋近代のナチュラリズム(自然は一つ・文化は複数)が人類史上きわめて例外的であることを示した。LLMが前提とする客体化された自然・自律的個人というモデルは、人類の認識様式の一形態にすぎない。
今日から試せる小さな実験がある。AIに問いを投げるとき、「答えを出さないでほしい」「この問いを曖昧なまま返してほしい」と明示的に依頼してみてほしい。あるいは「この問いを不立文字として扱うとしたら、言語で残せるものは何か」と問い直してみる。禅の「不立文字」とは、悟りは言語・文字では伝達できないという認識論的立場だ。AIはおそらく、その指示に戸惑いながらも何かを返してくる。その戸惑いの形そのものが、自分の認識論的前提を照らし出す鏡になる。道具の限界を知ることが、使い手の自由を守る。
科学技術社会論の研究者シーラ・ジャサノフとサン・ヒョン・キムは2015年、日本・韓国・米国・英国の比較研究から、各社会がテクノロジーに対して固有の「社会技術的想像」を投影していることを示した。日本の技術想像には「調和」「共生」「曖昧さの肯定」という軸が通っている。この想像をAI設計の思想的オルタナティブとして意識化することは、暮らしの哲学の問題だ。生態系において多様性が回復力を高めるように、認識論の多様性は社会が未知の問いに応答する力を支える。均質な認識論の世界では、その認識論が想定しない問いが生じたとき、社会は沈黙するしかない。
AIが西洋哲学を話すことは、もはや所与の条件だ。ならば問うべきは「どう抵抗するか」ではなく、「何を手放さずにいるか」だ。「間」に居続ける感覚、「場所」の論理、言語化できない「いき」の身体知——これらはAIが扱えない領域の地図であると同時に、人間の認識論的多様性を守る最後の砦でもある。日本語で夢を見るとは、日本語という言語の問題ではない。AIが整理できない問いを、整理しないまま抱え続ける意志の問題だ。