商店街のアーケードの下で、見知らぬ子どもが見知らぬ大人に話しかける。長田区でそんな光景を10年見続けてきた人は、それが「普通ではない」と気づくまでに少し時間がかかったと言います。育ちが空気のように場所に溶けているとき、その価値は見えにくい。価値が見えなければ、当然お金にもならない。しかしこれは、価値がないのではなく、まだ経済の言葉に翻訳されていないだけかもしれません。翻訳の問題は、翻訳の方法論を持てば解ける。この記事は、その方法論を探す試みです。
神戸市長田区の路地を歩いていると、壁に貼られた手書きのチラシや、玄関先で話し込む人々の姿が目に入ります。10年という時間をかけて、そこでは「下町ぐらし研究所」と名付けられた実践が積み上げられてきました。子どもが企画を立て、大人がそれに乗り、気づけば大人自身も変わっていく。この現象は、外から見れば「まちづくり活動」に映るかもしれませんが、内側から見れば、場所そのものが学びと変容の培地になっているということです。
人類学者ポール・コナートン(ケンブリッジ大学)は2009年の著書『How Modernity Forgets』で、近代化が「場所に宿る記憶」を系統的に消去してきたと論じました。近代都市の更新は、建物だけでなく、そこに生きた人々の身体的実践の記憶ごと塗り替えていく。長田区は1995年の阪神・淡路大震災で街の多くを失いながら、それでも「育ちの記憶」を再び積み上げてきた場所です。コナートンの視点から言えば、この蓄積こそが、他の場所では買えない固有の資産であり、リビングラボの「見えない資本」の正体です。
では、その「見えない資本」は本当に測れないのでしょうか。経済学者ルイジ・ブルニ(ローマ・ルイス大学)とステファノ・ザマーニ(ボローニャ大学)が提唱する「関係財(Relational Goods)」という概念は、他者との関係そのものが価値の源泉となる財の類型を指します。関係財は消費しても減らず、共有することで増える。下町ぐらし研究所が生み出しているのは、まさにこの関係財です。問題は、関係財が従来の市場取引になじみにくいことではなく、それを可視化する評価言語が整備されていないことにあります。
マネタイズの入口として、最も現実的なのは「誰が何のために払うか」を多層に設計することです。参加者個人ではなく、企業(共創パートナーとしてのフィールド利用料)、行政(政策実証の場としての委託費)、研究機関(フィールドデータへのアクセス料)という複数の支払い主体を組み合わせるハイブリッド収益モデルが有効です。さらに「リビングラボ」という名称を正式に採用することは、EU・北欧の政策フレームや学術コミュニティとの接続を意味し、助成金・産学連携・自治体協定という新たな資金経路を開く制度的正当性の獲得につながります。
「広げる」ことと「場所性を守る」ことは矛盾しないと、デザイン研究者エツィオ・マンジーニ(ミラノ工科大学名誉教授)は論じています。彼が提唱する「分散型システム(Distributed Systems)」の考え方では、拠点を複製するのではなく、方法論とネットワークを共有することで、それぞれの場所固有の実践が並列して育つモデルを描きます。長田区の固有性は守りながら、「下町ぐらし研究所メソッド」として他地域へライセンスする形は、場所性とスケールの矛盾を解消する一つの設計です。
「育ちに値段をつける」ことへの躊躇は、誠実さの表れです。しかしその躊躇を放置すると、活動は善意の消耗戦に終わります。関係財に経済言語を与えることは、ケアを商品化することではなく、ケアが持続するための翻訳作業です。長田区が10年かけて積み上げた記憶は、翻訳を待っている資産です。翻訳した瞬間に、それは日本中の下町が必要としているモデルになります。