新刊の書評をLinkedInで読んだとき、奇妙な感覚に囚われたことはないでしょうか。アレックス・カープの『The Technological Republic』を称賛する投稿が、「いいね」と「シェア」の数とともに流れてくる。快楽消費型テクノロジーへの批判が、まさにその快楽消費型プラットフォームのアルゴリズムに乗って届く。批判の言葉は確かにそこにある。しかしそれを運ぶ回路は、批判対象そのものだ。この奇妙さに気づいた瞬間、思想と媒体の関係について、私たちは根本的な問いの前に立たされます。
マーシャル・マクルーハンが1964年に「メディアはメッセージである」と書いたとき、彼が指していたのは内容の問題ではなく形式の問題でした。テレビが何を放送するかではなく、テレビという媒体が人間の知覚様式そのものを再編成するという洞察です。この命題を今日のSNS流通に当てはめると、テクノロジー批判の思想が140字に要約され、エンゲージメント指標で選別されるとき、批判の内容がいかに急進的であっても、その受容様式はプラットフォームの形式論理によって先に決定されている、ということになります。
批判的思想が流通形態によって変質する現象は、歴史に先例があります。1920年代から1940年代にかけて、フランクフルト学派のテオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーは「文化産業(Culture Industry)」という概念を定式化しました。批判的思想が大量複製・商品化される過程で、その批判性が骨抜きにされるメカニズムの記述です。ラジオや映画が担った役割を、今日ではSNSのバイラル拡散とAI要約が引き継いでいます。形式が変わっても、批判を商品に変換する論理は同型です。
哲学者アンドリュー・フィーンバーグは1991年の『Critical Theory of Technology』で、技術を「道具主義」(中立的手段)でも「実体主義」(自律的運命)でもなく、社会的価値が設計に埋め込まれた「技術コード(technical code)」として捉える批判的技術論を展開しました。SNSプラットフォームという技術コードは、エンゲージメント最大化という価値を設計段階で内蔵しています。その回路を通過する批判思想は、シェアされやすい形に変形される圧力を受け続ける。批判する主体が、批判対象の論理に適応させられる逆説がここに生じます。
この逆説に対して、私たちにできる小さな介入があります。思想のテキストを「要約」ではなく「原文」で読む習慣を取り戻すことです。AI要約やバイラル書評が提供するのは、プラットフォームの形式論理を通過した後の思想です。フィーンバーグが言う「技術コードへの参加」、すなわち技術の設計に異議申し立てをする行為は、まず媒体の形式論理を意識することから始まります。批判的テキストをどこで、どのように読むかという選択自体が、すでに小さな実践的抵抗の形をとり得ます。
ユルゲン・ハーバーマスは1981年の『コミュニケーション的行為の理論』で、「システムによる生活世界の植民地化」という構造を記述しました。経済・行政システムの道具的合理性が、相互理解を目的とする生活世界の言語空間を侵食するという議論です。プラットフォームのアルゴリズムは、まさにこの植民地化の現代的エージェントです。批判的言説が生まれる場(生活世界)が、エンゲージメント最適化というシステム論理に浸食されるとき、思想の批判性は内容ではなく流通形態のレベルで先に決定されてしまいます。
カープの『The Technological Republic』が提示する「国防・インフラへの技術者動員」という代替案は、批判の矛先を市場から国家へと移すだけで、技術の政治的中立性という問いを回避したまま別の権力構造への従属を正当化するリスクを持ちます。しかしより根本的な問いは別のところにあります。批判の言葉は、批判対象の回路を流れるとき、すでに批判対象の論理に適応した形にしか存在できないのか。それとも、回路を流れながらも回路を変える可能性を秘めているのか。この問いに「どちらでもある」と答えることを、ここでは拒否します。媒体の形式論理への無自覚な服従こそが、批判性を失わせる唯一の原因です。