桃太郎は桃から生まれた。そのことを、いまの小学生はどこで知るのでしょうか。テレビをつければ、桃太郎は松田翔太が演じる若者であり、浦島太郎・金太郎とつるんでスマートフォンの料金プランを語ります。auの「三太郎」シリーズは2015年の放映開始以来、高視聴率と高好感度を維持し続け、3人の昔話の主人公を「現代の友人グループ」として茶の間に定着させました。子どもが物語に自分で出会う前に、企業が用意したキャラクター像が先に脳裏へ刷り込まれる。これは単なる「CMが面白い」という話ではありません。伝承とは本来、語り継がれるたびに聴き手が意味を受け取り直す、生きた公共財です。その財が、子どもの同意も関与もないまま、大人の経済論理によって上書きされているとしたら——その静かな収奪を、私たちはまだ問い始めてもいません。
桃太郎という名前の重さは、桃という果実そのものの神話的な重力に由来します。『古事記』には、黄泉の国から追われた伊邪那岐命が桃の実を投げて魔を祓う場面があり、その桃は「意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)」という神名を与えられています。大いなる神の霊威を宿した実——それが桃です。桃から生まれた子どもが鬼を退治するという物語は、この神話的な文脈の上に成立しており、子どもが「なぜ桃から生まれるのか」と問うたとき、その問いは日本列島の古層にある浄・穢の観念へと自然につながっていきます。ところが、CMの桃太郎にはその重力がありません。彼は桃から生まれず、鬼も退治せず、ただ「友人」として画面に立っています。重力を失った固有名詞は、もはや伝承ではなく商標です。子どもが最初に出会う桃太郎が商標であるとき、その後に昔話の桃太郎と出会っても、物語は「CMのパロディ」として受け取られかねない。
商標という言葉を引き取りながら、歴史をもう少し遡ってみます。室町期から江戸初期にかけて流行した短編絵入り物語の総称「御伽草子」には、浦島太郎をはじめ約400編の物語が含まれています。これらは貴族文学と庶民口承伝承の中間に位置し、挿絵を伴うビジュアル文学の最初の大量現象として知られています。重要なのは、御伽草子の物語が特定の作者を持たず、語り手と聴き手の間で意味が絶えず更新されてきたという点です。浦島太郎が竜宮城から帰る話は、ある土地では「時間の不可逆性」の寓話として、別の土地では「異界との交換」の物語として語られてきました。どの解釈が「正しい」かを誰かが決める必要はなかった。物語は公共の広場に置かれ、誰もが自分の文脈で受け取ることができたのです。広告が特定の解釈——「三人は友人である」——を大量露出によって固定するとき、その公共の広場には高い塀が建ちます。子どもはその塀の外から、すでに意味の決まった物語を渡されます。
塀を建てる行為を、民俗学者のティモシー・タンガーリーニ(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)は2013年の研究で「伝承の構造的収奪」として分析しています。彼はデンマーク民話のデータベースを計算分析し、特定の固有名詞が商業的・政治的文脈に先占されると、口承コミュニティがその名詞を「自分たちの語り」として再活性化する能力を失うことを示しました。先占、つまり「先に場所を取ること」——これはまさに広告が得意とする戦略です。auの三太郎シリーズが2015年以降に積み重ねた高頻度・高好感度の露出は、桃太郎・浦島太郎・金太郎という固有名詞を「auのキャラクター」として先占しました。子どもの認知において、先に届いた印象は後から届く情報の解釈枠になります。認知科学ではこれを「初頭効果」——最初に入力された情報が後続の判断を方向づける現象——と呼びます。
認知の順序という問題は、さらに倫理的な問いへと開かれます。子どもは広告の受け手として、同意を与えていません。テレビCMは子どもの意思とは無関係に繰り返し再生され、昔話の固有名詞に特定の意味を付与し続けます。国連子どもの権利条約(1989年採択)の第17条は、子どもが多様な情報源から情報を得る権利を保障し、大衆媒体が子どもの福祉に有害な内容から保護されるよう求めています。昔話の上書きが「有害」かどうかは議論の余地があります。しかし「多様な情報源から情報を得る権利」という観点で見ると、商業的に先占された固有名詞は、子どもが伝承の多様な解釈に自力で出会う機会を狭めています。経済的に強力な単一の解釈が、公共の物語空間を占拠する——これは「子どもを大切に育てる」という社会的合意と、静かに矛盾しています。
世界観という言葉を引き取るなら、固有名詞の「多重汚染」という現象にも目を向ける必要があります。「桃太郎」という名前は現在、少なくとも3つの異なる文脈で子どもの前に現れます。昔話の主人公、auCMの俳優が演じるキャラクター、そして農業協同組合が品種登録したトマトの商品名です。これらは互いに無関係に存在しながら、同じ固有名詞を共有しています。子どもの認知の中で、これらは整理されるでしょうか。大人でさえ「桃太郎トマト」と「CMの桃太郎」と「昔話の桃太郎」を意識的に区別するには一定の文脈知識が必要です。子どもにとって、固有名詞は世界を分節する最初の道具です。その道具が複数の商業的文脈に同時に引っ張られるとき、伝承の物語は「名前の一用途」に格下げされます。公共の文化遺産としての昔話は、誰かが意図的に守ろうとしなければ、経済の引力に自然に飲み込まれていきます。