佐渡島の港に降り立った子どもが、会ったばかりの大人に「おじちゃん、これ見て」と石を差し出す。その瞬間に何かが起きている。初対面なのに、どこかで会ったことがある人に話しかけるような、あの感触。それは偶然でも奇跡でもなく、ある種の「場の設計」が引き起こした現象だと、今は思う。東京からはじまり、愛知、新潟、佐渡などの日本各地、そして上海へと国境をまたいで広がる「asobi基地」というコミュニティで14年間繰り返し目撃されてきた上記の事例の様な感触を、文化人類学と社会神経科学と都市社会学の三つの視点から解きほぐしてみたい。
文化人類学者のマーシャル・サーリンズ(シカゴ大学)は、1972年に発表した論文の中で、贈与と互酬の連鎖が「親族」を事後的に生成すると論じた。つまり血縁が先にあって親族関係が生まれるのではなく、ともに食べ、ともに労し、ともに危機を乗り越えることが「親族」という感覚を後から作り出すというのだ。佐渡の港での石の場面が示しているのも、まさにこの逆転である。属性の共有ではなく、行為の共有が「家族感」を召喚する。
この論理は、近代の「コミュニティ」概念を根底から問い直す。ドイツの社会学者フェルディナント・テンニースが1887年に提唱した「ゲマインシャフト(共同体)」は、血縁・地縁・精神的紐帯に基づく自然発生的な結合として描かれた。しかし14年間の実践が示すのは、地縁も血縁もない人々の間に、行為のデザインによって「ゲマインシャフト的感触」を意図的に生成できるという事実だ。共同体は「発見」するものではなく「つくる」ものだという転換が、ここに起きている。
社会神経科学はこの現象の生物学的基盤を提供する。米カリフォルニア大学ロサンゼルス校のナオミ・アイゼンバーガーらが2003年に『Science』誌で報告した研究によれば、社会的排除は身体的疼痛と同じ神経基盤(背側前帯状皮質)を活性化させる。裏返せば、「ここにいていい」という安心感は、痛みの不在として神経レベルで登録される。子どもが石を差し出せたのは、「拒絶されない」という身体的予感があったからだ。安心感は感情ではなく、生理的状態である。
では、その安心感はどう設計されるのか。社会学者のロバート・パットナム(ハーバード大学)は「橋渡し型社会関係資本(bridging social capital)」という概念で、異質な人々をつなぐ弱い紐帯の重要性を示した。実践的には、「役割を外す瞬間」を意図的につくることが鍵になる。大人が「先生」でも「保護者」でもなく、ただ一人の人間として子どもと同じ地平に立つ。肩書きを剥いだ状態で共同作業をする時間を30分でも設けることで、橋渡しの回路は開く。
上海という地点が加わることで、この問いはさらに鋭くなる。文化的背景も言語も異なる環境で「親戚感」が生まれるとすれば、それは文化を超えた普遍的な何かに触れているはずだ。発達心理学者のマイケル・トマセロ(デューク大学)は、ヒトが他の霊長類と根本的に異なる点として「共同注意(joint attention)」の能力を挙げる。同じものを一緒に見て、「見ている」ことを互いに知っている状態。佐渡の石も、上海の路地も、共同注意の対象になった瞬間に「関係」の種になる。
「親戚」は血ではなく、行為の累積によって事後的に生成される。この一文が示す含意は小さくない。過疎化する地方も、国境を挟んだ都市も、「属性の共有」を前提にした制度設計ではなく、「行為の共有」を起点にした関係性のデザインによって初めて地続きになる。ハコモノに予算を積むより、石を一緒に拾う30分を設計せよ。