会議室で誰かがその言葉を口にするたびに、空気が少し緩む瞬間がある。「早く行きたいなら一人でいけ、遠くへ行きたいならみんなでいけ」。アフリカの諺として広まったこのフレーズは、しかし文献研究者たちが追いかけると出典が見当たらない。2010年代以降、複数の民俗学者が調査したが、アフリカの特定の言語・地域・口承伝統に対応する原語が確認されていない。むしろ2000年代の欧米ビジネス書が「アフリカの諺」というラベルを貼って流通させた可能性が高い。出典不明の言葉が権威を帯びて繰り返されるとき、それは問いを開くより問いを閉じる働きをする。「みんなでいこう」と鼓舞した三日後にイライラが募るのは、その言葉が実は何も答えていなかったからかもしれない。
朝、誰にも告げずにノートを開く。問いが湧き、答えが湧き、また問いが湧く。その連鎖に名前をつけるとすれば「脳内ブレスト」だが、正確には対話である。自分の中の批判者と弁護者が交互に発言し、外部の声が入らないからこそ回路が高速で回る。哲学者セーレン・キルケゴール(1846年『現代の批判』)はこの状態を「単独者」と呼んだ。群衆の中では個人の判断が溶解し、誰も責任を取らない匿名の意志が生まれると彼は警告した。「みんなでいけ」という言葉が心地よく響くのは、それが単独者の孤独から解放してくれるからかもしれない。だがその解放は、判断の放棄と紙一重である。
「アフリカの諺」というラベルは、言葉に地理的な重みと集合知の香りを与える。しかし出典を持たない言葉は、使われるたびに文脈から切り離され、都合よく読まれる。経営の場で引用されるとき、この言葉は往々にして「チームを作れ」「合意を得ろ」という指示の詩的な包装紙になる。文化人類学者のジェームズ・クリフォード(1988年『文化の窮状』ハーバード大学出版)は、西洋社会が非西洋の「声」を借りて自らの規範を正当化する構造を「文化の流用」と呼んだ。出典不明の諺が繰り返されるとき、私たちは問いと向き合うかわりに、権威ある言葉の影に隠れている。
ハンナ・アーレント(1958年『人間の条件』シカゴ大学出版)は、人間の活動を「労働」「製作」「行為」の三層に分けた。「行為」だけは複数の他者の前でなされるものであり、ひとりでは完結しない。しかし同時に彼女は、「思考」は本質的に孤独な内的対話であり、ソクラテス的な「自己との問答」なしに真の判断力は育たないとも論じた。この緊張が核心を突く。思考はひとりでなければ深まらず、行為はみんなでなければ意味を持たない。「ひとりかみんなか」という問いは、フェーズの問いではなく、今自分がしているのが「思考」なのか「行為」なのかを見極める問いなのである。
組織論の文脈で、この緊張は「探索と深化のジレンマ」として定式化されている。ジェームズ・マーチ(米スタンフォード大学)は1991年、Organization Science誌に発表した論文で、組織が深化(既知の改善)に傾くと短期効率は上がるが長期適応力を失い、探索(未知への挑戦)に傾くと逆になることを示した。0から1を生み出すフェーズは探索の極であり、認知的自由と速度を要求する。ここに人員を増やすと、調整コストと合意形成コストが創造の速度を上回る。フレデリック・ブルックス(1975年『人月の神話』)が言ったように、9人の女性が集まっても1ヶ月で赤ちゃんは産めない。
では「みんなでいく」ことに価値はないのか。そうではない。問題は、みんなでいくことを「遠くへ行く手段」と捉える誤解にある。社会心理学者ビブ・ラタネ(米フロリダ・アトランティック大学)らが1979年にJournal of Personality and Social Psychologyで実証したように、集団サイズが増すほど個人の貢献は希薄化する「社会的手抜き」が生じる。みんなが増えるほど「遠く」が遠のく逆説だ。みんなでいくことが機能するのは、目的地がすでに共有されているときだけである。0から1の孤独な発明を、1からNへ橋渡しする「翻訳者」の存在が不可欠であり、その接続なしに「みんなでいこう」と叫んでも、集団は速度を失いながら近くで止まる。
みんなが追いついてくると、また別の辺境へひとりで走り出す。その繰り返しを「居心地の悪さ」と呼ぶのは正確ではない。生態学では、撹乱後の裸地にまず単独で侵入する先駆種が、後続の群集が定着できる土台を作ることを「遷移」と呼ぶ。先駆種は極相には向かない。それは欠落ではなく、機能の構造である。アーレントが言った思考の孤独と行為の複数性に戻れば、ひとりで走る人間は思考し続けており、みんなが来た瞬間に行為の場が生まれ、そしてその人は再び思考へと退く。問うべきは「どちらがいいか」ではなく、「今、自分は思考しているのか、行為しているのか」だ。その問いを持つ人だけが、言葉の呪縛から自由になれる。