アテネの旧市街を歩いたとき、壁の落書きが目に入った。色褪せた文字と、その下に積み重なった新しい層。観光客向けの案内板と、シャッターの下りた店舗が交互に並ぶ通り。GDPが改善し、IMFへの融資が完済されたという事実は、その街の皮膚には刻まれていなかった。数字の回復と、身体に刻まれた傷の回復は、まったく別の時間軸を生きている。その落差を言葉にしようとするとき、統計は沈黙し、街だけが語り続けていた。経済と社会のあいだには、どんな構造的な溝があるのか。その問いを、ここから始めたい。
2013年、ギリシャの若年失業率は59.5%に達した。この数字を読んだとき、私は一瞬、桁を間違えたかと思った。二人に一人以上の若者が、働く場所を持てなかった。しかしその後、GDPは底を打ち、財政収支は改善し、2022年にはIMFへの融資が完済された。メディアはこれを「回復」と呼んだ。だが、回復した何かと、回復しなかった何かのあいだには、深い非対称がある。
医療人類学者のポール・ファーマー(ハーバード大学)は2004年の著作『Pathologies of Power』のなかで、「構造的暴力(Structural Violence)」という概念を展開した。ガルトゥングの平和学から引き継いだこの概念は、政策・制度・経済構造が人々の選択肢を収縮させ、身体と生に刻み込まれる過程を記述する。ギリシャ危機後の移民化・低賃金への適応・将来選択の喪失は、個人の失敗ではなく、構造が人々に押しつけた「見えない暴力」として読み解ける。
経済学者のオリビエ・ブランシャール(当時IMF主任エコノミスト)らは2013年、緊縮財政の財政乗数が当初の想定(0.5)を大きく超え、0.9〜1.7に達していたと実証した(IMF Working Paper, 2013)。つまり、政策立案者は緊縮の痛みを過小評価したまま、政策を実行した。数字の見誤りが、数百万人の生活に転嫁された。統計的誤差は、誰かの人生の誤差ではない。
ハーシュマンの「退出・発言・忠誠(Exit, Voice, Loyalty)」論(1970年)は、不満を持つ人々が「声を上げる」か「去る」かを選ぶと記述した。しかし構造的暴力のもとでは、声を上げる資源そのものが奪われる。ギリシャでは2010年以降、50万人以上が国外へ出た。その多くは高学歴の若年層だった。この「撤退としての適応」は、統計上の失業率を改善させながら、国の長期的な人的基盤を静かに空洞化させる。
ダニ・ロドリック(ハーバード大学)が「グローバリゼーションのトリレンマ」と呼ぶ構造がある。経済統合・国家主権・民主主義の三者は同時に最大化できない。ギリシャはユーロ圏という経済統合の内側で通貨主権を失い、外部債権者の条件に服した。日本は円建て国債と日本銀行を持つことで通貨主権を保持するが、その自由度が財政規律の弛緩を許容し、別の形の停滞を生んでいる。問いの形は違っても、何かを差し出すことで安定を買うという構造は同じだ。
「回復」とは、誰の視点から語られるのか。GDPが改善し、財政収支が黒字化しても、移住した若者は戻らず、諦めた選択肢は戻らない。ジョセフ・スティグリッツらが2009年の報告書で問いかけたように、GDPは社会的厚生の代理指標にすぎない。経済の数字が回復したとき、社会の傷が沈黙しているだけだとしたら、私たちは何を「回復」と呼んでいたのか。その問いに答えないまま、次の危機の準備だけを進めることはできない。