スウェーデンの夏、同僚たちは当然のように数週間のバカンスを計画し、宿を予約し、チケットを買う。迷いがない。その横で、私は少しばかりの余剰を前にして妙な後ろめたさを感じていた。使っていいのだろうか。もっと貯めておくべきではないか。手元の数字が増えることへの安堵と、それを動かすことへの怯えが同居している。この感覚はどこから来るのだろう。稼ぎ方は学んだ。貯め方も知っている。しかし、使い方だけは誰にも習わなかった。お金の使い方は技術の問題ではなく、倫理の問題だとしたら、私たちはその訓練をどこで積めばいいのだろうか。
スウェーデンの職場で、夏の計画を話す同僚の顔には迷いがない。「ラップランドに三週間行く」「ギリシャで家族と過ごす」。彼らは余剰が生まれた瞬間、それを経験へ変換することを自然に知っている。一方、私の中には「使うことへの後ろめたさ」がこびりついていた。口座の残高が増えるたびに安堵し、それを動かすたびに罪悪感が走る。この感覚は個人の性格ではなく、文化的に刷り込まれた消費の脚本——何にお金を使うべきかを無意識に規定する「文化的スクリプト」——の産物である。問いはそこから始まる。
「使わないことが美徳」という日本的な世界観は、ある特定の時代に意図的に形成された。明治期の勤倹貯蓄運動、戦時の国債奨励、高度成長期の企業貯蓄文化が重層的に積み重なり、倹約はアイデンティティの核に埋め込まれた。これはスウェーデンとの対照で際立つ。政治学者ヨースタ・エスピン=アンデルセンは1990年の著作『福祉資本主義の三つの世界』で、社会民主主義レジームが「脱商品化」によって個人の消費選択を老後不安から解放すると論じた。安心が保障されている社会では、余剰を今ここで使うことへの恐怖が構造的に薄れる。財布の開き方は、制度が決めている。
お金を使う行為が単なる経済取引ではないことを、人類学は早くから見抜いていた。マルセル・モースは1925年の『贈与論』で、贈与には「与える義務・受け取る義務・返す義務」という三重の構造があり、それが社会的紐帯を生成すると論じた。モノを誰かに渡す行為は、貨幣を関係性へと変換する錬金術である。ブリティッシュコロンビア大学のエリザベス・ダンらが2008年に『Science』誌で発表した実験では、見知らぬ他者のためにわずか5ドルを使うだけで、自己への支出より有意に高い幸福感が当日中に測定された。「誰のために使うか」が、幸福の分散を説明する最大因子だった。
では、経験と贈与へ支出を向けるために、私たちは何を変えればいいのか。行動経済学者デイヴィッド・レイブソンがハーバード大学で1997年に示した「双曲割引」の概念は、人間が将来の快楽を系統的に過小評価することを数理的に証明した。「いつか使おう」という先送りは意志の弱さではなく、脳の時間評価の構造的な歪みである。リチャード・セイラーとシュロモ・ベナルツィが2004年に設計した「Save More Tomorrow」プログラムは、この歪みを逆手に取った行動介入だ。同じ発想を反転させ、月次の「経験予算」を自動積立し、期末に使い切るルールを設ける。他者への贈与を定期化する。小さなコミットメント装置が、先送りの罠を解除する。
アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチは、資源の価値をそれが可能にする「機能と自由」で評価する。お金の「正しい使い方」とは最適な投資対効果の計算ではなく、自分と他者のどの潜在能力を開花させるかという問いへの応答である。ここで消費経済学者ティボール・シトフスキーの洞察が刺さる。シトフスキーは1976年の『喜びなき経済』で、人間は「快適(comfort)」の繰り返しに慣れ、真の「快楽(pleasure)」を失っていくと論じた。慣れ親しんだ消費パターンを反復するだけでは、幸福は目減りしていく。不慣れな刺激を含む経験へ支出を向けることが、人間的成長と幸福を同時に生む。お金の使い方は、暮らしの設計思想の表出である。
「死ぬときに貯金は持っていけない」という言葉は正しいが、それだけでは足りない。問いはもっと今に近い場所にある。今この瞬間の余剰を、経験・贈与・能力の開花へと変換する訓練を、私たちは日々の選択の中でしか積めない。お金の使い方は技術ではなく倫理であり、その倫理は一度学べば終わりではなく、使うたびに問い直される実践である。使わないことが美徳だった時代の脚本を、私たちはまだ書き直せていない。