モニターに、話し言葉が文字となって流れていく。登壇者の声が、ディスカッション中の言葉が、文字という形で聴覚障害のある参加者の視野に届く。その瞬間、その人の表情が静かに変わる——緊張が解け、場に入れた、という安堵の表情に。要約筆記とはそういう「場」を生み出す行為だ。ところが、その場の存在を、当の聴覚障害者の多くが知らない。制度はある。担い手もいる。しかし、その存在が社会に届いていない。情報格差を解消するために設計された制度が、なぜ情報格差の中に埋もれているのか。その問いは、制度の外側にある広報の失敗ではなく、制度の内側に組み込まれた構造的な矛盾を指し示している。
会議室の片隅でパソコンの画面が静かに光り、話し言葉が文字へと変換されていく。要約筆記者は話者の言葉を圧縮し、意味の核だけを取り出して打ち込む。聴覚障害のある参加者はその文字を読み、初めてその場の議論に参加できる。この「場」が生まれた瞬間の静けさは、言葉にしがたい。しかし日本聴覚障害者情報提供施設協議会が2016年にまとめた調査報告では、要約筆記の利用経験を持つ聴覚障害者は回答者の20%未満にとどまっていた。制度はある。担い手もいる。それでも、その場は当事者の大半に届いていない。
要約筆記の制度的起源は1970〜80年代の障害者運動にさかのぼる。1993年の障害者基本法、2013年の障害者総合支援法によって制度は整備されたが、専門職化が進むにつれて担い手の間口は狭まり、社会的認知度は上がらなかった。丸山眞男は1961年の『日本の思想』(岩波新書)で、日本の制度が本来の目的を忘れ「手続きの維持」を自己目的化する病理を鋭く指摘した。要約筆記団体がSNS発信を禁じる理由として掲げる「誤解を招く恐れ」は、まさにその病理の現れだ。制度を守ることが、制度が守るべき人を守ることよりも優先されている。
西田幾多郎は1926年の論文「場所」(『西田幾多郎全集 第4巻』岩波書店所収)において、主体と客体が相互浸透する「絶対無の場所」を思想化した。要約筆記という行為は、聴覚障害者と健聴者の間に、まさにそのような共有の場所を生み出す実践だ。 しかし、要約筆記養成講習会受講者は、その受講期間である42週に渡り、受講に関するSNSでの情報発信を禁じられる。禁止はその場所の社会的可視性を遮断する。場所が見えなければ、出会いは起きない——西田的論理は、制度の不可視性が当事者の実存的孤立を構造的に深めることを示す。社会学者アービング・ゴッフマンのスティグマ管理論が示すように、制度の不可視性は当事者が「支援を求めること自体を恥じる」構造をも強化する。
米マサチューセッツ工科大学のエヴェレット・ロジャーズは、イノベーションが社会に普及するための条件として「可観測性(Observability)」——他者がその使用を目にできること——を挙げた(2003年『Diffusion of Innovations』第5版)。要約筆記者養成課程における42週・84時間のSNS発信禁止は、この可観測性を制度的に遮断する。学習者が「今日こんなことを学んだ」と投稿する行為は、個人のモチベーション維持にとどまらず、潜在的な担い手の発掘、そして聴覚障害当事者への制度の存在告知という三重の機能を持つ。発信を禁じることは、制度の自己再生産回路を静かに断ち切ることだ。
インド出身の経済学者アマルティア・センは、1999年の『Development as Freedom』(Oxford University Press)でケイパビリティ・アプローチを展開し、真の自由とは「選べる状態にあること」だと論じた。要約筆記へのアクセスは、機能の提供ではなく、潜在能力(capability)の問題として捉え直されるべきだ。制度が存在しても当事者がその存在を知らなければ、ケイパビリティはゼロに等しい。「誤解を招く恐れがある」という理由で発信を禁じることは、選択肢の存在を社会から消去する行為だ。情報格差の解消を掲げながら、情報の流通を管理することで、当事者の選択可能性そのものを奪っている。
「誤解を招く恐れがある」——その言葉は、誰の恐れなのかを問い返す必要がある。制度を守りたい者の恐れか、それとも当事者が情報を得ることへの恐れか。情報格差を解消しようとする営みがいつ情報格差の共犯者になるかという問いは、要約筆記に限らない。支援の名のもとに情報を管理する構造は、あらゆる「善意の制度」に潜んでいる。沈黙を守ることが、誰かの沈黙を永続させている——その逆説に気づかないまま、私たちは何を守り続けているのか。