ある大企業の障害者雇用担当者は、自社の法定雇用率が達成されていることを誇らしげに報告した。 しかしその「雇用」の実態は、本社から数百キロ離れた農場で、主たる事業とは無関係な作業に従事する障害者たちの姿だった。書類の上では雇用が存在し、数値は達成されている。 違法でもない。それでも、何かが深く損なわれているという感覚が残る。 その正体は「公正さとは何か」という問いそのものを反転させる。
障害者雇用代行ビジネスとは、企業が障害者を直接雇用する代わりに、農場や施設を運営する専門業者に障害者の雇用を委託し、法定雇用率の達成を「購入」するサービスである。 日本では障害者雇用促進法により、従業員40人以上の企業に2.5%以上(2026年7月1日以降「従業員37.5人以上の企業に2.7%」)の雇用率が義務づけられ、未達成企業には納付金が課される。この制度の下で、雇用の「数」を最も低コストで満たす手段として代行ビジネスが拡大した。 合法の範囲内にある。しかし、「合法」が、本来問うべき問題を見えにくくしている。
法定雇用率制度の導入以降、日本の障害者雇用数は増加してきた。しかし経済学者チャールズ・グッドハートが1975年に指摘した法則——「測定指標が政策目標になると、指標としての有効性を失う」——がここで働いている。 雇用数という指標を目標化した瞬間に、企業の合理的行動は「障害者が能力を発揮できる職場をつくる」ことではなく「雇用数を最小コストで達成する」ことへと収束する。 制度設計者の意図と行為者の行動が乖離するこの構造は、2007年にノーベル経済学賞を受賞したレオニード・ハーヴィッツのインセンティブ両立性理論が示す必然である。
問題の核心は制度設計の失敗だけにあるのではない。米ミシガン大学の政治哲学者エリザベス・アンダーソンは1999年、論文「平等の目的とは何か」(Ethics誌)で、平等の目的は「不運な人への補償」ではなく「人々を対等な市民として扱うこと」だと論じた。 障害者雇用代行は、障害者を「社会が補償すべき不運な存在」として固定化し、対等な労働参加という本来の目的を損なう。 さらに政治哲学者マイケル・ウォルツァーが1983年の著作『正義の領域』で示したように、金銭という財が雇用機会という別領域の財を支配するとき、複合的な平等の均衡は崩壊する。 公正さを「購入」する行為は、公正さの社会的意味そのものを変質させる。
アマルティア・センとマーサ・ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチは、人間の尊厳を「実際に何ができるか」という潜在能力の発揮で測る。形式的な雇用は統計上の数字を生むが、当事者のケイパビリティを拡張しない。 この論点を自然科学が裏打ちする。デービッド・ティルマンらが1997年にScience誌で発表した草地生態系の実験では、種の多様性が生態系の生産性と安定性を高めることが示されたが、その効果は「種数」ではなく「機能的ニッチの実質的分化」によって生じた。 形式的な種数を増やすだけでは生態系機能は向上しない。 あなたの組織で、障害のある同僚は意思決定の場に参加しているか——その問いが、形式と実質の差を照らし出す。
公正さの商品化は、組織文化と社会規範に長期的な傷を残す。結果の数値だけを購入する企業は、過程の公正性を根本から毀損している。 障害者が意思決定に参加せず、職場の文化形成にも関与しない形式的雇用は、スコット・ペイジが数理的に示した認知的多様性の便益——異なる思考様式が問題解決能力を高める効果——を組織にもたらさない。 効率と公正は本来対立しない。しかし公正を外注した瞬間に、長期的な効率も失われる。それは倫理の問題であると同時に、経営の問題でもある。
「公正さはお金で買えるか」という問いの本質は、「買おうとする行為そのものが、公正さの意味を変質させる」という逆説的構造にある。買えるか否かではない。 公正さとは取引の対象ではなく、関係の質として実践の過程に宿るものだ。雇用機会が購入可能なコンプライアンス商品として流通する社会では、障害者の労働参加という社会的財そのものが汚染される。 制度改革の方向性は明確だ——雇用数という結果指標から、意思決定参加率・職域の広がり・キャリア形成という過程指標へ。 あなたの組織は今、何を最適化しているか。