小学校の「道徳の時間」に、薄い副読本が配られた。紙はつるつるして、どこかよそよそしい手触りだった。教師が音読する。主人公が迷う。「さて、この子はどうすべきだったでしょう」という問いが黒板に書かれ、手を挙げた子が「正解らしき答え」を言い、教師がうなずく。その瞬間、私は何かを学んだのではなく、何かを演じた。あの時間が「道徳を教わった記憶」として残っていないのは、おそらく偶然ではない。あの場で育まれていたのは、道徳的判断力ではなく、道徳的な正解を素早く察知する能力だったかもしれないからだ。この違和感こそが、問いの入り口になる。
「道徳の授業を受けましたか」と聞かれると、多くの人が「はい」と答えるだろう。しかし厳密には、2018年以前に道徳の「授業」はなかった。道徳が教科化される前、あの時間は「道徳の時間」と呼ばれるものだった。しかし教科になる前と後で、学校の道徳教育は本質的に何が変わったのだろうか?この問い自信を持って答えることができる人は、教育関係者でも少ないかもしれない。制度が変わっても現場の実感が変わらなかったのは、問われるべき問いそのものが問われてこなかったからではないか。
「徳は教えられるか」という問いは、2500年前にすでに立てられていた。プラトン『メノン』でソクラテスは、徳が知識であれば教授できるはずだが、優れた人物の子が必ずしも徳を受け継がないという事実を突きつけ、結論を保留した。その問いは未解決のまま現代に持ち越された。日本で1958年に「道徳の時間」が特設され、2018年に正式な教科となるまでの60年は、制度の変化が問いの解決を代替できると信じた歴史だったのかもしれない。だが制度は、問いを解決しない。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』(紀元前350年頃)で、徳を「知識として伝達できるもの」とは明確に区別した。フロネーシス(実践的知恵)は、習慣(エトス)と反復的実践の中でのみ形成される。ここで立ち止まらせる事実がある。ジョナサン・ハイト(バージニア大学)は2001年の研究で、人が道徳的判断を下す際、推論は判断の原因ではなく事後的な正当化にすぎないことを示した。「なぜ悪いのか」を問われた被験者は、論理的根拠を示せないまま「ただ悪い」と繰り返す「道徳的唖然(moral dumbfounding)」現象を呈した。授業が想定する「理性的な道徳的推論」という認知モデル自体が、根底から揺らぐ。
では私たちに何ができるか。ガート・ビースタ(エディンバラ大学)が言う「主体化」を授業の外で起こす小さな実践として、問いかけの型を変えることが一つの手がかりになる。「この場面でどうすべきか」ではなく、「あなたはどうしたいか、そしてそれは他者とどう関わるか」を問い続けること。道徳的感受性は、正解を当てる練習ではなく、自分の衝動と他者の存在が摩擦する瞬間に育まれる。その場は教室よりも、家庭の食卓や、友人との行き違いや、誰かの痛みに出会う日常の細部にこそある。問いかけの質が、道徳的成長の土壌を決める。
ビースタは教育の目的を「資格化・社会化・主体化」の三軸で整理し、道徳教育が主体化を標榜しながら実質的に社会化——既存規範への適応——に終始していると指摘する。しかしエミール・デュルケームが1902年の『道徳教育論』で示したように、道徳は個人の内面に宿るものではなく、集団的規律と連帯の中に根拠を持つ。この二つの立場は矛盾ではなく、緊張として保たれるべきものだ。共同体の規範と個人の判断の間を往復し続けることそのものが、道徳的成長の形であると捉え直すとき、「教える」という動詞の意味が変わる。
道徳は、教えるほど遠ざかる。正解を提示するたびに、問いは閉じられる。本当に問われるべきは「道徳は教えられるか」ではなく、「道徳は、どのような関係の中で育まれるか」だ。善く生きることを共に問える場が、いまどこにあるかを問い続けることが、教科化の是非をはるかに超えた、私たちに残された唯一の誠実な問いである。