2019年5月1日、令和への改元を告げるカウントダウンが各地で行われた夜、渋谷のスクランブル交差点には自然発生的な人波が生まれた。スマートフォンのカメラが一斉に空へ向けられ、見知らぬ人同士が「おめでとう」と声を掛け合う。その光景を眺めながら、ひとつの問いが頭を離れなかった。 あなたはその日、皇室から何かを受け取っただろうか。生活は変わっただろうか。命が救われただろうか。 街頭インタビューでは、「なんとなく続いてほしい」という言葉が繰り返された。しかし、その「なんとなく」の正体が問われることはほとんどなかった。本稿は、その感覚を感情の外側から捉え直す試みである。
令和改元の祝賀ムードが列島を包んだあの夜、多くの人が抱いたのは、「喜び」というよりも「安堵」に近い感情だったのではないだろうか。天皇が代わったからといって、自分の生活が直ちに変わるわけではない。それでも人々は集まり、祝い、ときに涙を流した。 この感情の強さと、制度が日常生活に及ぼす実質的な影響の小ささとの落差こそ、皇室を考える際にまず直視すべき事実である。感情そのものは否定されるべきものではない。 しかし、その感情が何を根拠として生まれているのかは、別の問いとして検討されなければならない。
皇室の存続が「日本人の総意」として語られるとき、1945年以降の歴史的経緯は見落とされがちである。歴史家ジョン・ダワー(ハーバード大学)は『敗北を抱きしめて』(1999年)のなかで、天皇の戦犯訴追を回避した背景には、GHQによる占領統治を安定させるという政治的判断があったことを詳述している。 マッカーサーが天皇を統治上の資源として温存した判断は、日本国民が民主的に選択した結果ではない。現在の皇室制度は、歴史的偶然と占領政策の利害が重なって成立した側面を持つ。 その意味で、「自明の伝統」というより、「設計された継続」として理解する視点も必要である。
人が象徴的権威に従い、依存する心理的メカニズムについては、政治心理学の分野で長年研究が積み重ねられてきた。 「階層秩序を自然なものとして受け入れる傾向が、政府への服従的態度と強く相関すること(社会的支配志向性(SDO))」 「人は制度が不公平であっても、それを正当化することで心理的安定を得ようとする傾向があること(システム正当化理論)」 ——「なんとなく続いてほしい」という感覚も、そうした認知的メカニズムの一つとして理解できる可能性がある。
ここで一つ、思考実験をしてみてほしい。 「来年、皇室が廃止されることになったとしたら、自分の日常の何が変わるだろうか」と、具体的に書き出してみるのである。 祝日の名称が変わるかもしれない。ニュースで取り上げられる話題も変わるかもしれない。しかし、医療、教育、雇用、住居といった生活の基本的条件は、おそらく大きく変わらない。この作業から見えてくるのは、皇室存続を支える根拠が「実利」よりも「感情的な紐帯」に強く依存しているという事実である。感情は尊重されるべきだが、感情を制度維持の根拠とすることの政治的コストについては、なお十分な議論が行われているとは言い難い。
「廃止か存続か」という二項対立だけでは、この問題を十分に捉えることはできない。 スウェーデンやオランダでは、王室の政治的権限を段階的に縮小し、文化的・外交的役割へと比重を移してきた。宮中祭祀や伝統行事についても、皇室という制度にのみ依拠しなければ継承できないとは限らない。ユネスコ無形文化遺産の枠組みや、国立機関による儀礼保存といった制度設計も考えられる。 問うべきなのは、「皇室を残すかなくすか」ではなく、「文化的価値と民主的正統性を両立させる制度をいかに設計するか」である。その問いは、いまなお日本社会で十分に議論されているとは言えない。
「良い天皇が続く」という保証は、どこにも存在しない。制度の正統性を個人の善良さに依拠させることは、制度論としてきわめて脆弱である。 歴史家ハーバート・ビックス(ニューヨーク州立大学)の実証研究は、昭和天皇が1945年8月15日以前に少なくとも三度、和平交渉の機会を黙認あるいは見送っていた可能性を一次史料に基づいて指摘している。この史料を前にすると、「天皇は戦争を止める象徴である」という通念は再検討を迫られる。 将来、再び戦争へ向かう判断が下される局面が訪れたとき、象徴は何を果たし得るのか。その問いに対する明確な答えを、私たちはまだ持っていない。