陶芸家が轆轤を回しているとき、ある瞬間から「自分が器をつくっている」という感覚が消える。手が土を導いているのか、土が手を動かしているのか、もはや区別がつかない。ジャズ奏者が即興の深みに入るとき、音楽を「演奏している」のではなく、音楽が「流れ出ている」と語る。誰もが一度は経験したことのある、その感覚——気がついたら出来ていた、という感覚——を、西洋の創造性理論は長らく例外として扱ってきた。しかし、その例外こそが本質ではないか。創造性とは、意図によって産出されるものではなく、意図が退いたときに初めて立ち上がるものではないか。この問いを、歴史と哲学と科学の三つの角度から解きほぐしてみたい。
轆轤の前に座る陶芸家は、最初こそ「この形にしよう」という意図を持って土に触れる。しかし熟練するほど、その意図は邪魔になる。「考えると失敗する」と語る職人の言葉は、世界中の工芸の現場で繰り返されてきた。スポーツ心理学が「クラッチング(choking under pressure)」と呼ぶ現象——意識的に制御しようとした瞬間に動きが崩れる——は、創造的行為においても同型の構造を持つ。意図と創造の間には、私たちが思うよりずっと深い亀裂がある。
1950年、心理学者J・P・ギルフォードは米国心理学会(APA)の会長講演で「発散的思考(Divergent Thinking)」を提唱し、創造性は一部の天才に宿る神秘ではなく、訓練によって誰もが獲得できる能力だと宣言した。この宣言は冷戦という文脈の中で生まれた。共産主義的な同調主義への対抗イデオロギーとして、米国の軍・企業・教育機関は「創造性の民主化」という言説を戦略的に普及させた。Creativityという概念は、政治的・制度的に「つくられた」のである。
同じ時期、日本では別の問いが立ち上がっていた。民藝運動の思想家・柳宗悦(1889-1961)は1928年の『工芸の道』で「美は作るものではなく、現れるものである」と述べた。職人が自我を手放したとき、「他力」が器を通じて美を顕現させる——この「他力の創造論」は、意志・技能・独創性の三位一体を前提とする西洋モデルとは存在論的に異なる。鈴木大拙が深めた禅の「無心」も同じ構造を持つ。そして米国の心理学者テレサ・アマビールが実証したのは、外的評価や報酬が創造的質を一貫して損なうという事実だった。東洋哲学の出発点に、西洋心理学が数十年かけて辿り着いた。
では、「立ち上がる創造性」を日常に呼び込むにはどうすればいいか。野中郁次郎(一橋大学名誉教授)がSECIモデルで示した「共同化(Socialization)」フェーズのヒントが使える。これは言語化も評価も介さず、ただ同じ場にいることで暗黙知が伝わるプロセスだ。完成を目指さないスケッチ、結果を評価しない対話、素材にただ触れる時間——これらは「やってみる」ではなく「ただそこにいる」という姿勢の実践である。意図を手放すことは、怠惰ではなく、創造への別の入り口だ。
社会科学者ヴラッド・グラヴェアヌ(ダブリン・シティ大学)は2013年に「5A's framework」を提唱し、創造性をActor・Action・Artifact・Audience・Affordanceという五つの関係の網の目として再定義した。創造性は個人の頭の中にあるのではなく、人と場の相互浸透の中に生起する。生物学者フランシスコ・ヴァレラとウンベルト・マトゥラーナが1974年に提唱したオートポイエーシス理論——生命システムが外部設計なく自己組織的に構造を生成する——は、この「立ち上がる創造性」の自然科学的アナロジーとして機能する。創造は設計されるのではなく、条件が整ったとき自ずと生起する。
「創造性を高めよう」という意志が、創造性の本質から遠ざける。これは逆説ではなく、構造的な必然だ。訓練によって獲得された創造性は、評価・承認・市場への適合という外発的回路に接続され、やがて「安全な創造性」へと収束する。あなたは今日、何かを手放せたか。その問いだけを残しておく。