山あいの集落で、朝の霧が杉林を包む時間帯に、老人が畑の畔を素手で押さえる。その動作に理由を尋ねると「土が締まる感じがわかる」と返ってきた。マニュアルもデータもない。身体が土地の記憶を読んでいる。この瞬間に宿るものを、経済学はずっと「外部性」と呼んで帳簿の外に置いてきた。しかし外に置かれたものが、じつは地域の豊かさの核心だったとしたら——資本主義は何を成長させてきたのか、という問いそのものが反転する。
英国の人類学者ティム・インゴルド(アバディーン大学)は2000年の著作『The Perception of the Environment』で、人間が環境を外側から利用する「資源採取者」ではなく、生態的プロセスの内側に参与しながら知識・技術・スピリチュアリティを生成する「居住者(dweller)」であることを論じた。畔を押さえる老人の手は、土地との長年の参与によって培われた知覚そのものであり、それは売買できる商品ではなく、その場所に生きることで初めて生まれる存在論的な産物である。
人類学者アルトゥーロ・エスコバル(ノースカロライナ大学)は2001年の論文「Culture sits in places」で、グローバル資本主義が引き起こす「場所の消去(erasure of place)」を批判した。均質な市場論理が地域に浸透するとき、消えるのは景観だけではない。固有の宇宙論・生態知・経済実践が束ねられた「場所のプロジェクト」が解体される。地域らしさとは文化的装飾ではなく、経済・生態・スピリチュアリティを統合した存在論的基盤なのだと、エスコバルは主張する。
2005年の国連ミレニアム生態系評価(MEA)は、自然が提供する価値を「文化的生態系サービス(Cultural Ecosystem Services)」として正式に分類し、精神的・審美的・スピリチュアルな価値を生態系評価に組み込むべきだと示した。さらに2019年のIPBES地球規模評価(Sandra Díaz et al.)は、生物多様性の喪失が文化的多様性・地域アイデンティティの喪失と構造的に連動することを実証した。自然資本の消耗は、同時に地域固有の意味体系の不可逆的な消耗でもある。
では、地域らしさを活かした経済はいかに設計できるか。経済学者エリノア・オストロム(インディアナ大学、2009年ノーベル経済学賞)が示したポリセントリック・ガバナンス(複数の自律的意思決定中心が共存する統治構造)は、市場でも国家でもない第三の管理原理として、コモンズ(共同管理される共有資源)を維持してきた制度的条件を明らかにした。地域固有の資源は、所有権で囲い込む前に、参与の規則を地域自身が設計できる制度があってこそ生き続ける。
経済学者アマルティア・セン(ハーバード大学)のケイパビリティ・アプローチは、豊かさをGDPではなく「人が実際に生きられる生の多様性」で測る。地域固有の文化・自然・スピリチュアリティは、この枠組みでは「ケイパビリティを拡張する基盤」として経済設計の中心に置かれる。市場価値に換算できないものを「非効率」と切り捨てる従来の成長論は、じつは人々が生きられる可能性の幅を狭めることで成立してきた。豊かさの指標を変えることは、経済の目的そのものを変えることを意味する。
地域らしさは守るべき遺産ではなく、未来の経済を設計する存在論的な素材である。それは外から保護するものではなく、その土地に参与し続けることで内側から生成されるものだ。資本主義が「外部性」として帳簿の外に置いてきたものを中心に戻すとき、成長の意味は反転する。老人の手が土の締まりを読む、その知覚のなかに、次の経済の設計図が眠っている。