就職活動の終わりが見えなかった夜、友人に勧められて観た映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』。 その中で、炎柱・煉獄杏寿郎は、 「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です」 という母の言葉を胸に、命を落としていった。 私はその映画を4回観て、4回とも泣いた。 それは、言葉がただ美しかったからではない。 「強さ」と「正しさ」が一致した瞬間の、あの眩しさに心を打たれたからだった。 しかし、社会に出て5年が経ち、起業し、現実の力学の中でもがくようになった今、私はある問いを手放せなくなっている。 「正義」とは、いったい何なのか。
やなせたかし(1919〜2013)がアンパンマンを生み出したのは、1973年のことだった。 戦時中、「正義のために戦え」と命じた国家は敗戦によって価値を反転させ、その“正義”は一夜にして悪へと変わった。 その経験を経て、彼が辿り着いたのは、イデオロギーや大義ではなく、「お腹を空かせた人に、自分の顔を差し出す」という、決して反転しない行為そのものだった。 やなせたかしは、「正義を行う時は、自分も傷つく覚悟が必要だ」と繰り返し語っている。 それは単なる綺麗事ではない。 歴史の暴力を生き延びた者だからこそ辿り着いた、骨身に刻まれた結論だった。
「力なき正義は無力なり、正義なき力は暴虐なり」——。 この言葉は、ブレーズ・パスカル(1623〜1662)の『パンセ』(1670年刊行)に収められた断章に由来する。 パスカルは続けて、 「正義と力を結合させなければならない。そのためには、正義あるものを強くするか、強いものを正義にするかだ」 と記している。 現代ではしばしば、「力なき正義は悪である」という形で語られることがある。 それは、“力を持ってこそ守れるものがある”という現実感覚と強く結びついているのだと思う。 しかし興味深いのは、パスカル自身が、正義と力を結びつけることを理想としながらも、それは「ほとんど不可能だ」とも語っていたことだ。 正しさだけでは世界は動かない。 けれど、力だけでは容易に暴力へと変わってしまう。 その矛盾の中で、人は「正義とは何か」を問い続けるしかないのかもしれない。
正義の衝突をめぐる問いに対して、哲学は一つの鋭い補助線を引いている。 功利主義の祖・ジェレミー・ベンサム(1748〜1832)が提唱した「最大多数の最大幸福」という考え方だ。 できるだけ多くの人の幸福を最大化する。 その原理は、コロナ禍において残酷なほど明確に作動したように思う。 「感染拡大を防ぐ」という集団的な正しさのために、部活動、大会、卒業式といった、個人にとって二度と戻らない時間が失われていった。 もちろん、それは誰かを守るための選択だった。 しかしその一方で、「守られる側」に入れなかった感情や、「失われた側」の痛みは、しばしば“仕方のない犠牲”として処理されていった。 2021年、ハーバード大学の政治哲学者マイケル・サンデルは、功利主義的な判断には、 「誰の幸福を数えるのか」 という問いが抜け落ちやすいと指摘している。 正義の総量を最大化しようとする論理が、特定の誰かの正義をゼロにしてしまうことがある。 それは本当に、“正しい”と言い切れるのだろうか。
「それは誰にとっての正しさなのか」と問い直す習慣は、実は日常の中に小さく実装できるのかもしれない。 SNSで正論を発信する前に、その言葉が届く相手の顔を、一人だけ思い浮かべてみる。 back numberが2021年にリリースした『水平線』には、 「正しさを別の正しさで 失くす悲しみにも出会うけれど」 という歌詞がある。 この言葉は、“正しさ”同士が衝突する時代の感覚を、驚くほど正確に言語化しているように思う。 正論は、置かれた文脈によって、ときに刃になる。 だからこそ、自分の放つ言葉が、誰かの正義を消していないかを確かめる“一呼吸”を持ちたい。 私はそれを、弱さではなく「倫理的な技術」なのだと思っている。
哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906〜1995)は、正義の根拠を「他者の顔」に見出した。 人は、顔を持った他者と向き合う時、簡単には暴力を振るえなくなる。 目の前にいる誰かの痛みや飢えに触れた瞬間、“正しさ”は抽象的な理念ではなく、具体的な責任へと変わる。 そう考えると、アンパンマンが自分の「顔」を差し出すという行為は、とても象徴的に思える。 正義とは、遠くの理念から降ってくるものではなく、目の前の他者に応答しようとする身体的な行為の中から立ち上がるのかもしれない。 もちろん、力があることと、正しいことは同義ではない。 しかし一方で、自分が傷つく覚悟なしに、他者の顔へ応答することもまた難しい。 その二つの緊張のあいだにこそ、正義の実践は宿っているように思う。
「これが正解だ!」と決めつけ答えを固定した瞬間、それは別の誰かへの暴力になりうる。 正義は、問い続けることによってのみ、正義であり続けられるのかもしれない。