会議の場で、相手の提案を聞き終わる前に「これは違う」と感じたことはないでしょうか。あるいは、長年の料理の経験を持つ人が、計量スプーンを使わずに塩を「目分量」で加え、それが毎回ほぼ正確な量になっている光景を目にしたことがあるかもしれません。言葉にならない確信が、論理的な検討より先に体の内側から立ち上がってくる、あの感覚です。澤谷由里子氏の「身体が先に知り、言葉が後から追う」という言葉は、この現象を鮮やかに言い当てています。私たちはこの感覚を「なんとなく」と呼んで半ば軽視しますが、実際には経験を積んだ人ほど、この「なんとなく」の正答率が高い。なぜ経験は直感を正確にするのか。この問いは、知識とは何か、学ぶとはどういうことかという問いと、根の部分でつながっています。
「なんとなく」という感覚の正体に最初に迫ったのは、認知心理学者ゲイリー・クラインでした。クラインは1989年から1993年にかけて、ベテラン消防指揮官の意思決定を現場で観察し続けました。そこで発見したのは、熟練した指揮官が火災現場で複数の選択肢を比較して最善策を選ぶのではなく、状況を「読んだ」瞬間に行動方針が自動的に浮かび上がるという事実でした。クラインはこれを「認識プライム決定(Recognition-Primed Decision)」と呼びます。日本語で言えば「状況認識が行動を呼び覚ます」仕組みです。熟達した判断とは、記憶に蓄積されたパターンと目の前の状況が素早く照合され、最初に浮かんだ選択肢を心の中でシミュレーションして確認する、という二段階の処理です。ここで重要なのは、選択肢の「比較」ではなく「照合」が先に来るという点です。経験が蓄積されるほど、このパターンの引き出しは増え、照合の精度は上がります。
照合という言葉が示すように、直感の精度は脳が何と照合しているかに依存します。この照合の仕組みを神経科学の側から説明するのが、アンディ・クラーク、カール・フリストン、ヤコブ・ホーヴィらが2010年代に体系化した「ベイズ的脳(Bayesian Brain)」という考え方です。これは、脳がつねに「次に何が起きるか」を予測し、実際の感覚情報との誤差を最小化しようとする推論装置として機能するというパラダイム、つまり認知の枠組みです。統計学のベイズ推論と同じ構造で、脳は過去の経験から形成された「事前確率」(これまでの世界モデル)を持ち、新しい感覚情報が届くたびに「事後確率」(更新された世界モデル)へと書き換えます。経験を積むということは、この事前確率の精度を高めることに他なりません。初心者の脳は事前確率が粗く、感覚情報との誤差が大きい。熟練者の脳は事前確率が緻密で、わずかな感覚情報からでも正確な予測を立てられます。
予測の精度を高める事前確率は、どのようにして形成されるのでしょうか。それは教室で教科書を読むことでは蓄積されません。人類学者ジーン・レイヴは1991年の研究で、仕立屋・産婆・肉屋などの徒弟制を民族誌的に分析し、「正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Participation)」という概念を提唱しました。学びは教授によって伝達されるのではなく、実践共同体への参加を通じて身体に漸次的に染み込むというものです。沖縄の忠孝蒸留所で杜氏が弟子に発酵のタイミングを教えるとき、そこに言語化できるマニュアルはありません。発酵の香り、もろみの粘度、気温の微細な変化が、何年もの実践を経て身体の感覚として刻まれます。野中郁次郎が1995年の『知識創造企業』で「暗黙知(tacit knowledge)」と呼んだ、言葉にできない身体的な知識です。
この暗黙知の考え方は、東洋の思想が500年前に既に見抜いていたことでもあります。中国の思想家・王陽明は1518年に「知行合一(ちこうごういつ)」を唱えました。真の知識は必ず行動を伴い、行動を伴わない知識は真の知識ではない、という命題です。朱子学が「まず知り、後に行う」という順序を前提としたのに対し、王陽明は知ることと行うことは本来分離できない一つの出来事だと主張しました。この洞察は、現代の認知科学が「経験を通じた身体的学習」として実証しつつある事柄の哲学的先取りです。経験値による直感が正確なのは、その直感が「知ること」と「行うこと」を何千回も繰り返した結果として身体に蓄積された知識だからです。言い換えれば、直感とは「圧縮された実践の歴史」です。ダニエル・カーネマンはこの種の速い思考を「システム1」と呼び、経験のない直感は誤りを犯しやすいと警告しながらも、熟達した専門家のシステム1は信頼に値すると明確に区別しています。
実践の蓄積という観点から見ると、現代のAIをめぐる議論に新しい光が当たります。Brynjolfsson・Li・Raymond(2023年)の研究は、5,179名の顧客サービス担当者を対象にGPT-3ベースのAI補助ツールを導入した結果、平均生産性が14%向上し、特に経験の浅い担当者では34%の改善が見られたことを示しました。AIが熟練者の暗黙知を低経験者に「伝播」した形です。しかし、ここに逆説があります。AIはパターンを高速で照合しますが、身体を持たず、実践の場で誤差を修正し続けた経験を持ちません。クラインの消防指揮官が持つ「状況の重さ」の感覚、レイヴの仕立屋が指先に覚えた布の抵抗感、杜氏がもろみの前で感じる緊張感——これらは身体が現実と接触し続けた時間の堆積です。