会議室で、AIが作成した提案書を前に、誰も言葉を発しなくなる。 「これ、私たちが作るより良くないか」 そんな空気が漂い、誰かが「それでも、人間にしかできないことがあるはずだ」と口にする。しかし、その言葉で議論が前へ進むとは限りません。むしろ、AIに奪われない能力を探すことに意識が向き、目の前の提案をどう判断し、誰がその結果を引き受けるのかという問いが後景へ退いていきます。 「人間にしかできないこと」を問うこと自体が間違いなのではありません。どの仕事をAIへ任せ、どの能力を育てるかを考えるうえでは、必要な問いです。 問題は、その答えを人間の価値の根拠にしてしまうことです。
2011年、IBMの質問応答システムWatsonは、クイズ番組『Jeopardy!』で歴代の強豪プレイヤー2人に勝利しました。2022年には、画像生成AIのMidjourneyを使って制作された作品が、コロラド州フェアのデジタルアート部門で1位を獲得しました。 こうした出来事が起きるたびに、私たちは「では、AIにできないことは何か」と境界線を引き直します。しかし、技術の現在地によって動く境界線は、人間の価値を置く土台としては不安定です。 ある能力がAIにも実行できるようになった瞬間、その能力に宿っていた人間の価値まで失われるのでしょうか。もしそう考えるなら、人間の価値は、AIがまだ獲得していない能力の残余にすぎなくなります。
別の見方を与えてくれるのが、哲学者マーガレット・ギルバートの「共同コミットメント」です。 ギルバートは、私たちが共同で行為するとき、複数の個人がたまたま同じ方向へ動いているだけではなく、「私たちとして何をするか」への共同のコミットメントが形成されると論じました。そのコミットメントは、当事者の間に、互いの行為を求めたり、逸脱へ異議を唱えたりする権利と義務を生みます。 この理論が、AI時代の人間の役割を直接証明するわけではありません。それでも重要な示唆があります。 私たちが組織の判断に責任を持つのは、「自分にしかその判断ができないから」だけではありません。顧客、同僚、部下、社会との関係の中で、説明し、異議を受け止め、必要なら判断を改める立場を引き受けているからです。
労働経済学でも、仕事を丸ごと「機械にできる/できない」と分ける見方は以前から修正されてきました。 デイヴィッド・オーター、フランク・レヴィ、リチャード・マーネーンは2003年の研究で、コンピュータ化が、明示的な規則に落とし込みやすいルーティン業務を代替する一方、当時の非ルーティンな分析業務や対人業務を補完してきたことを示しました。 この研究は生成AIを対象にしたものではなく、現在の能力境界をそのまま説明するものでもありません。ただ、重要な視点を残しています。技術は「職業」を一括して置き換えるのではなく、一つの仕事に含まれるタスクの組み合わせを変えるということです。
たとえば、AIに「短期的な生産性を落とさず、人件費を10%削減する案」を求めたとします。AIは条件に合う精緻な案を出せるかもしれません。しかし、その案が優れているほど、私たちは与えた目的の妥当性を問いにくくなります。 なぜ短期的な生産性を優先するのか。誰の仕事を削減可能な費用として扱ったのか。 これらは、計算に必要なデータが不足しているから残る問いではありません。何を守り、誰に負担を求め、どの未来を選ぶのかをめぐって、立場の異なる人々が答えをつくらなければならない問いです。 どれほど質の高い出力も、それだけで決定を正当なものにはできません。正当性は、答えの性能に備わる属性ではなく、その決定によって影響を受ける人が、理由を問い、異議を唱え、目的そのものを修正できる関係の中で生まれるからです。 ここで、ギルバートの共同コミットメントがもう一度意味を持ちます。共同コミットメントとは「私たちは何を目指し、何を互いに求め合うのか」を、当事者同士で引き受けることです。
もちろん、人とAIの能力差を見極めることには現実的な意味があります。教育、採用、職務設計、所得保障を考えるうえで、どの仕事が代替されるかという分析は欠かせません。 しかし、その分析から人間の価値を導くことはできません。 AIの能力がどこまで進んでも、組織の決定によって、仕事を失う人がいる。評価される人と、評価されなくなる人がいる。顧客との関係が変わり、働く意味を見失う人がいる。そこで人間は、AIより優れた能力を持つ存在としてだけでなく、決定によって生き方を変えられる当事者として現れます。 当事者は、意思決定のために処理される情報ではありません。「その目的で本当によいのか」「なぜ自分たちがこの負担を負うのか」と問い、決定の前提を揺らす資格を持つ存在です。
会議で問うべきなのは、単に「AIにできないことは何か」でも、「最後に誰が責任を取るのか」でもありません。自分たちが生きる世界の目的を、他者とともに形づくる当事者としての位置です。 「人間にしかできないこと」を探し続けると、人間は能力の保有者としてしか見えなくなります。そのとき失われるのは仕事だけではありません。 人間が貧しくなるのは、AIに能力を奪われたときではない。能力の比較に気を取られ、自分たちが何を目指すのかを決める立場まで手放したときなのです。