会議室の白板の前に立つとき、私はいつも微かな違和感を覚えます。参加者の顔を見渡しながら、「この場をどこへ連れて行こうか」と考えている自分に気づくからです。目的地を描き、そこへ向かって人を動かす——それがファシリテーションだと信じていた時期がありました。しかし、ある問いが頭から離れなくなりました。種は、どこへ向かって発芽するのでしょうか。根は、どこへ行こうとして土を割るのでしょうか。「向かう先」を外から与えられなくても、いのちは展開します。ならば、ファシリテーションとは誘導ではなく、展開の条件を整えることではないか。この問いは、「生き方としてのファシリテーション」という、より広い地平へと私を引き込んでいきます。
朝、コーヒーを淹れながら窓の外を見ると、庭の草が昨日より少し伸びていました。誰も命じていないのに、草はそのものになっていく。哲学者バールーフ・スピノザ(1632〜1677)はこの力を「コナトゥス(conatus)」と呼びました。あらゆる存在が自己の存在を維持・拡張しようとする本有的な力です。スピノザにとって、存在することはすでに動詞であり、静止した実体ではなく絶えざる自己産出の運動でした。この視点から見れば、人間も草も、無機物の結晶さえも、「何かになっていく」プロセスの只中にあります。ファシリテーションを語るとき、私たちはまずこの存在論的事実から出発する必要があります。
人類の文化は、この「なっていく」という経験を儀礼として刻んできました。文化人類学者アルノルト・ファン・ヘネップ(1873〜1957)は1909年の著作『通過儀礼』で、変容には普遍的な三段階——分離・移行(リミナリティ)・統合——があると論じました。リミナリティ(liminality)とは「閾の時間」です。古い自己は剥がれ落ち、新しい自己はまだ形を持たない、あの不定形の「あいだ」。世界各地の成人式、断食、巡礼が共通して持つこの構造は、becomingが起きる条件として「保護された不確かさ」が必要であることを示しています。ファシリテーターの仕事は、この閾の時間を早急に終わらせることではなく、安全に保持することかもしれません。
社会人類学者ティム・インゴルド(アバディーン大学)は著作『Being Alive』(2011年)で、「輸送(transport)」と「ウェイフェアリング(wayfaring)」を対比しました。輸送は出発点と目的地が先に決まり、移動はその間を埋めるだけです。ウェイフェアリングは違う——歩みそのものが道を作り、生を形成します。生命とは線を描くことではなく、線の上を生きることだとインゴルドは言います。さらに「メッシュワーク(meshwork)」概念は、生命体が互いの線を絡み合わせながら世界を共に織り成すことを示します。ファシリテーターが誘導者ではなく「絡み合いの条件を整える者」だとすれば、その仕事の性質は根本から変わります。
では実践の場で、何が変わるのでしょうか。試みてほしいことがあります。次に誰かと対話するとき、「この人を何かに向かわせよう」という意図を一度脇に置いてみてください。代わりに、「この人の中ですでに動いているものは何か」に耳を澄ませる。問いを投げるとき、答えを誘導する問いではなく、その人自身が自分の展開を感じ取れるような問いを選ぶ。プリゴジンの散逸構造論(1977年ノーベル化学賞)が示すように、開放系は非平衡状態でこそ自己組織化します。過度な秩序も過度な混沌も創発を阻みます。ファシリテーターの技法は、この「ちょうどよい不安定さ」を場の中に保つことに向けられるべきです。
ティモシー・モートン(ライス大学)の「暗黒生態学(dark ecology)」は、自然を美しい調和として描くことを拒みます。生命は絡み合い、食べ合い、寄生し合いながら展開する——その不気味さを直視することが、より誠実な生態学だとモートンは言います。「いのちが全うされる世界」というビジョンも、この不気味さを含む必要があります。ダナ・ハラウェイ(カリフォルニア大学サンタクルーズ校)が「making-kin(親族を作ること)」と呼んだように、becomingは常に他者との絡み合いの中で起きます。人間だけでなく、菌類、石、川、言葉——あらゆる存在が互いの生成に参与しています。ファシリテーションの射程は、会議室の壁をとうに超えています。
サルトルは「実存は本質に先立つ」と言いました。しかしインゴルドならこう言い換えるかもしれません——「歩みは道に先立つ」と。私たちは何者かになるために生きているのではなく、生きることそのものが、何者かになっていくプロセスです。人間とは、常に過渡期の人間なのです。Facilitation for becomingとは、その生きることを阻む条件を取り除き、展開が展開できる場を保持する実践です。それは会議室の技法ではなく、存在への態度です。ファシリテーターは答えを持つ必要がない。ただ、閾の時間を恐れず、絡み合いを信頼し、歩みに同行する——その覚悟だけが求められています。