会議室の壁に「共創」と書かれた付箋が貼られている。ファシリテーターが「ではみなさんで共創しましょう」と言った瞬間、何かが微妙にずれる感覚を覚えたことはないだろうか。言葉が発された途端、それまで場に流れていた何かが固まり、参加者の動きが少しだけ慎重になる。この奇妙な感覚は気のせいではない。「共創」という言葉そのものが、共創を可能にする何かを同時に損なっているとしたら——そう問い直すところから、この記事は始まります。
子どもたちが砂場で城を作るとき、誰も「共創しよう」とは言わない。一人が掘り始め、別の一人が水を運び、気づけば複数の手が同じ目的に向かって動いている。人類学者マーシャル・サーリンズが1972年に『石器時代の経済学』で記述したように、互酬性に基づく協力は、言語化される以前から人間社会の基盤として機能してきた。「共創」という概念が2000年代初頭に経営学の語彙として登場する遥か以前から、人々は共に何かを生み出すことを、むしろ言葉なしに実践していたのである。
C・K・プラハラードとヴェンカット・ラマスワミーが2004年に提唱した「Co-Creation」という概念は、企業と消費者の価値共創という文脈で生まれた。しかしこの命名の背景には、1990年代以降の新自由主義的市場化という歴史的文脈がある。かつて共同体の中で自明だった協力の実践が、市場化によって個人間の取引に分解された後、その失われた協力を「イノベーション手法」として再包装する必要が生じた。「共創」という言葉の誕生は、共創の自然な実践が制度的に解体されたことへの、遅れた応答だったのかもしれない。
言葉が行為に与える影響は、神経科学の知見からも裏付けられる。カール・フリストン(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)が2010年に『Nature Reviews Neuroscience』に発表した予測的符号化理論によれば、脳は常に先行する予測モデルに基づいて知覚を構成する。「共創」という言葉を事前に与えられた参加者の脳は、その概念的枠組みに沿って相互行為を予測し、評価し始める。自発的な協力が「正しく共創できているか」という自己監視の対象に変わる瞬間、行為の流動性は失われる。命名は解放ではなく、むしろ拘束として機能する。
では、どうすれば言語化の罠を避けながら協力の実践を育てられるのか。経済学者ジャン=フィリップ・プラトーが2000年に示した知見は示唆的だ。外部から制度的ルールを導入すると、それ以前に機能していた内発的な協力規範が駆逐される「クラウディングアウト」が起きる。同じ論理で、「共創」という外来概念を場に持ち込む前に、その場にすでにある協力の萌芽——誰かが始めた動きに別の誰かが自然に加わる瞬間——を観察し、記述することの方が、促進よりもはるかに重要な実践になる。
西田幾多郎は1911年の『善の研究』で「純粋経験」という概念を提出した。主客の分離が起きる以前の、経験がただ流れている状態のことだ。共創の最も豊かな瞬間は、この純粋経験に近い——自分が貢献しているのか受け取っているのかの区別が消え、行為と結果が分かちがたく絡み合う状態。「共創」という言葉はその状態を指し示そうとして、かえって主客の分離を招く。哲学的に言えば、言語は常に経験の事後的な切り取りであり、切り取られた瞬間に経験の流れは止まる。
「共創を推進する」という文の構造そのものが、すでに矛盾を内包している。推進する主体と推進される客体に分かれた瞬間、共創の条件は崩れる。言葉を手放すことが、共創を取り戻す唯一の入口だ。