朝、スーツの襟元に虹色のバッジを留める動作を、いつ最後にしただろうか。2015年に国連で採択されたSDGsは、あの17色のリングとともに街に溢れ、会議室の壁を彩り、企業の年次報告書を飾った。だが2030年まで5年を切った今、バッジを外した胸元には何が残っているのか。エコバッグを持ち、マイボトルを使い、フードロスに気を配ってきた。行動は確かに変わった。しかし「地球の裏側の貧困が減っているのか」という手触りは、最後まで得られなかった。その乖離の正体を掴もうとしたとき、問いは思わぬ方向へ転がっていった——幸福を測ることと、幸福を定義することは、本当に別の営みなのだろうか、と。
通勤電車の中でスマートフォンを開くと、ある自治体の「ウェルビーイング指標ダッシュボード」が目に入った。睡眠の質、社会的つながり、自然との接触時間——数値が並ぶ画面を眺めながら、ふと手が止まった。これは僕の幸福を映しているのか、それとも誰かが「幸福とはこういうものだ」と決めた鋳型に、僕を嵌め込もうとしているのか。その問いが、このエッセイの出発点だ。
哲学者マーサ・ヌスバウム(シカゴ大学)は2000年の著作『Women and Human Development』で、人間の繁栄を「身体的健康」「感情」「遊び」「環境への支配」など10の中核的ケイパビリティで定義した。重要なのは、彼女がこれを「達成された状態」ではなく「実際に何かをできる潜在能力」として描いた点だ。GDPが産出量を測るように、SDGsもまた「達成されたか否か」を問う。しかしヌスバウムの問いは別のところにある——その人は、そもそも選べる状態にあったか、と。
2023年、リチャードソンら(ストックホルム・レジリエンス・センター)はScience Advancesに衝撃的な報告を掲載した。プラネタリー・バウンダリーズ9境界線のうち6つが既に越境済みであるという知見だ。この数字は、「地球の持続可能性」と「個人の幸福」がトレードオフではなく同心円を描くという命題を、単なる理念から物理的制約の問題へと引き下ろす。地球システムが許容する空間の内側にしか、いかなる幸福の設計も存在できない。
ならば、その制約の内側で個人の幸福をどう測るか。コスタンザら(オーストラリア国立大学)は2016年、Ecological Economicsに掲載した論文で、SDGsとウェルビーイング指標を接合する試みを発表した。だが指標の設計には必ず選択が伴う。何を変数に選び、どう重み付けするかは技術的決定であると同時に規範的決定だ。アルキレ&フォスター(2011年、Journal of Public Economics)の多次元貧困測定法が示したように、集約アルゴリズムの選択が「誰が貧困か」という答えそのものを変えてしまう。
ラテンアメリカの先住民思想「ブエン・ビビル(Buen Vivir)」は、個人の幸福を共同体・自然との関係性の中にしか位置づけない。SWGsが「個人のウェルビーイング」を前景化する際、この問いは鋭く刺さる——誰の幸福観を普遍として採用するのか。ヌスバウムが「感情と想像力の政治的役割」を強調したのも同じ理由だ。指標の設計は中立的な技術作業ではなく、ある幸福観を正統化し、別の幸福観を周縁化する政治的行為である。
バッジを外した後に残るのは、空白ではなく問いだ。次に僕たちが胸に掲げるべき指標を誰が設計するかによって、「持続可能な幸福」の意味は根底から変わる。SWGsが本当に新しいフレームであるなら、それは答えを与える道具ではなく、誰もが幸福の定義に参加できる回路として設計されなければならない。測る者が定義する——その権力の所在を問い続けることこそが、ポストSDGs時代の最も切実な実践かもしれない。