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Vol.001 / 2026.05.23 (Sat) / No.0247
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RITE ESSAY/メンバーの記事

「できる自分」を手放したとき、はじめて自分の物語が始まる

川嶋康生名古屋市立大学
2026.05.25READ 8 MIN
ORIGINAL QUESTION — この記事のはじまり (問い・背景)
テーマ
メリトクラシーを乗り越え、自分の人生の主導権を自分のものとするためにはどうすれば良いのか。
問い・背景
この世界には、なすべきことと、あるべき姿がある、と心から信じて高校時代まで生きてきました。小学校、中学校、高校と、周りの子よりも頭がいいことで自分が有能だと思えました。さらに、親や先生からも褒められることで、自分が認められているような気がしていました。今思えば、自分の軸ではなく、社会から求められていることや、周りの判断を通して生きていたように感じます。そして、学力において有能だった私は、無事大学受験も偏差値的には高い大学に入学することができ、社会的に有能になった自分に対して肯定感を持てていました。しかし、大学に入ってから課外活動やアルバイトをしていく中で、高校時代までは自身の能力全てのように感じていた学力は、人の能力の一種の指標でしかないことに経験的に気付かされました。社会において求められている能力は学力のみに限らないのです。さらに、大学で履修する科目は自分自身で決定しなければならないとともに、必要な情報は自分で入手しなければならない社会へと急に変容し、自分の意思や自律性を重視されるようになりました。高校時代から、他者や社会から有能だと認められたり、親から褒められることで自分を肯定できていた、そして周りの人や社会が求められていることを軸にして生きてきた私にとって、有能になるための指標が増えたことによって有能感が得られづらくなったとともに、自律性がないため、自分が何をすれば良いのかもわからなくなってしまいました。そして、将来も何もわからなくなってしまった私は、慢性うつ病に罹患し、人生への絶望と自殺への渇望を抱えながら1年以上生きることになりました。現在では、慢性うつ病はかなり回復し、人生への絶望などの感情は薄れてきました。そんな今、生き方として真剣に考えていることがあります。それは、「自分らしく人生を生きてみたい」ということです。元来の私は、自分が有能である、という能力主義に陥っていたとともに、人生の意思決定を周りの人や社会に任せていました。そうではなく、自分のやりたいこと、したいこと、自分の意思などに耳を傾け、自分のことを尊重した生きやすい生き方を探したいのです。そんな人生の指標となる記事を、今回書いてみたいと思いました。

成績表を受け取る瞬間の、あの感覚を覚えていますか。数字が高ければ胸の奥が温かくなり、低ければそこに冷たい空洞が開く。テストの点数が自分の価値そのものだった頃、私たちは学校という装置の中で、知らぬ間に「評価される存在」として身体ごと組み込まれていました。褒められることで自分を確認し、順位で自分の居場所を測る。その回路はあまりにも自然に機能するため、それが外から与えられた尺度だとは気づきません。しかし大学という場に踏み込んだ瞬間、その尺度は突然揺らぎ始めます。何をすれば良いのかわからない、という感覚は、実は自分の軸を持ったことがなかったことの、最初の正直な告白かもしれません。

小学校から高校まで、テストの点数は単なる数字ではありませんでした。それは「自分がここにいて良い」という許可証でした。九十点を取った朝は足取りが軽く、親の「よくやった」という一言が一日を支えました。しかし七十点だった夜は、何かが自分の中から抜け落ちたような感覚がありました。有能であることが自己肯定の唯一の通貨になっていたのです。その通貨が通用しなくなったとき、財布ごと消えてしまったような空白だけが残りました。

この構造には、深い歴史的根がありました。社会学者マイケル・ヤングが1958年に「メリトクラシー(meritocracy)」という言葉を生み出したとき、それは理想社会の描写ではなく、ディストピア小説の警告でした。ヤング自身は2001年のガーディアン紙への寄稿で「この言葉が讃美語として使われることに憤慨している」と明記しています。能力による選別が公正に見えるほど、敗者は失敗を自己責任として内面化し、勝者は傲慢さを正当化する。ピエール・ブルデューが示したように、学校教育は文化資本の差異を隠蔽しながら階級を再生産する装置でもありました。個人の苦しみは、個人の弱さではなく、社会が設計した評価の回路の産物です。

心理学者エドワード・デシとリチャード・ライアンが提唱した自己決定理論(SDT)は、動機づけを外的調整から内的統合へのスペクトラムとして描きます。他者の評価によって動く「外的調整」の状態では、有能感・自律性・関係性という三つの基本的心理欲求が慢性的に歪められます。さらに神経科学が示す事実は、より根本的です。常に評価と達成を求め続ける生き方は、自己参照的思考や将来計画を担う脳回路「デフォルトモードネットワーク(DMN)」を慢性的に抑制します(Buckner et al., 2008)。つまり、評価に追われ続けることは、神経科学的に「自分が誰であるかを考える回路」をオフにし続けることを意味するのです。

では、どこから始めればよいのでしょうか。発達心理学者キャロル・ドウェックの成長マインドセット研究が示すように、能力を固定した実体として捉える「固定マインドセット」から、過程と変化を重視する視点への転換は、小さな習慣から始まります。一日一度、評価抜きで「今日、自分が本当に感じたこと」を書き留めてみてください。正解を探すのではなく、ただ感じたことを言葉にする時間です。次に、誰にも見せない何かを試みる「無評価の時間」を週に一度設けること。そして自分の選択を「正解か否か」ではなく「これは自分の物語の一部か」と問い直す習慣を持つこと。この三つは小さくても、外部の尺度から自分の内側へと重心を移す実践です。

フランスの哲学者ポール・リクールは1990年の著作『他者のような自己自身(Soi-même comme un autre)』で、自己同一性を二つに区別しました。変わらぬ実体としての「同一性(idem)」と、時間の中で語り直される物語的一貫性としての「自己性(ipse)」です。人生の主導権を取り戻すとは、過去を書き換えることではありません。うつ病の経験も、挫折も、空白の時間も、それらを「失敗」として外部の評価軸で断罪するのをやめ、自分自身が語り手となって意味づけ直すことです。あなたがその物語の著者である限り、どんな経験も物語の転換点になりえます。語り手が変わると、同じ出来事がまったく異なる意味を帯び始めます。

認知心理学者ハワード・ガードナーが多重知能理論で示したように、「賢さ」の定義は時代ごとに書き換えられてきました。学力による一元的な能力評価は、近代産業社会が特定の時期に必要とした、特殊な尺度に過ぎません。能力主義の外に出ることは、別の正解を見つけることではありません。問い続ける主体として生きることです。「自分らしく生きたい」という言葉を口にした瞬間、あなたはすでに、評価される客体から語り手への転換を始めています。

DEEPER/学術的観点から
2008年、ハーバード大学のランディ・バックナーらが『Annals of the New York Academy of Sciences』誌に発表した研究は、デフォルトモードネットワーク(DMN)が外部課題への集中時に系統的に抑制されることを示しました。DMNは自己参照・将来計画・ナラティブ的自己統合を担う脳回路であり、パフォーマンス状態の慢性化はこの回路を恒常的にオフにします。ブルデューのハビトゥス論はこれを補完します。評価回路に組み込まれた個人は外部基準を自己の一部として内面化するため、その基準を問い直すこと自体が困難になります。神経科学と社会科学が異なる言語で同じ構造を描いています。
  • SIGNAL 01

    デシ&ライアンの自己決定理論の基盤論文(2000年)は、外的調整に依存する動機づけが自律性・有能感・関係性の三欲求を慢性的に損なうことを示す。内的統合への移行は段階的に可能であり、介入研究でも確認されている。Deci & Ryan, 2000, Psychological Inquiry 11(4): 227-268.

  • SIGNAL 02

    ドウェックの1986年研究では、能力を固定実体と見なす「固定マインドセット」を持つ児童は、困難な課題に直面すると回避行動を取る割合が有意に高かった。学習観の転換が行動変容の先行条件となることを示す。Dweck, 1986, American Psychologist 41(10): 1040-1048.

  • SIGNAL 03

    マクーウェンの2007年総説は、慢性ストレス下での糖質コルチコイド過剰分泌が前頭前皮質の樹状突起を萎縮させ、自律的意思決定と将来計画能力を損なうことを神経生物学的に示した。McEwen, 2007, Physiological Reviews 87(3): 873-904.

  • SIGNAL 04

    バックナーらの2008年研究は、DMNが安静時に活性化し外部課題時に抑制される「逆相関パターン」を確立した。自己参照的思考を担うこの回路の慢性的抑制が、ナラティブ的自己統合を阻害する神経基盤として位置づけられる。Buckner et al., 2008, Annals of the New York Academy of Sciences 1124(1): 1-38.

KEY REFERENCE/参考文献
  • Deci, E. L., & Ryan, R. M. (2000). "The 'what' and 'why' of goal pursuits: Human needs and the self-determination of behavior." Psychological Inquiry, 11(4): 227-268. DOI: 10.1207/S15327965PLI1104_01

    自己決定理論(SDT)の包括的基盤論文。外的調整から内的統合へのスペクトラムと三つの基本的心理欲求(自律性・有能感・関係性)を体系化した。

  • Buckner, R. L., Andrews-Hanna, J. R., & Schacter, D. L. (2008). "The brain's default network: anatomy, function, and relevance to disease." Annals of the New York Academy of Sciences, 1124(1): 1-38. DOI: 10.1196/annals.1440.011

    デフォルトモードネットワーク(DMN)の解剖学的基盤と機能を確立した神経科学の基盤論文。自己参照・将来計画・ナラティブ的自己統合との関連を示す。

  • McEwen, B. S. (2007). "Physiology and neurobiology of stress and adaptation: central role of the brain." Physiological Reviews, 87(3): 873-904. DOI: 10.1152/physrev.00041.2006

    慢性ストレス下での前頭前皮質機能低下と自律的意思決定能力の損傷を神経生物学的に示した総説。うつ病と自律性喪失の神経基盤を理解する上で不可欠。

  • Dweck, C. S. (1986). "Motivational processes affecting learning." American Psychologist, 41(10): 1040-1048. DOI: 10.1037/0003-066X.41.10.1040

    固定マインドセットと成長マインドセットの概念を提唱した原著論文。能力を固定実体と見なす認知様式が回避行動と自律性喪失を招くメカニズムを実証した。

  • Ricœur, P. (1990). Soi-même comme un autre. Paris: Seuil.(邦訳:久米博訳『他者のような自己自身』法政大学出版局、1996年)

    ナラティブ的アイデンティティ(identité narrative)概念の哲学的基盤。自己を固定実体(idem)ではなく時間の中で語り直される物語的一貫性(ipse)として捉え直す視座を提供する。

  • Bourdieu, P. (1979). La Distinction: Critique sociale du jugement. Paris: Minuit.(邦訳:石井洋二郎訳『ディスタンクシオン』藤原書店、1990年)

    文化資本・ハビトゥス論を通じて、学校教育が階級再生産を隠蔽する装置として機能する構造を解明した社会学の古典。能力主義の社会的構築性を理解する基盤。

  • Young, M. (1958). The Rise of the Meritocracy. London: Thames and Hudson.

    「メリトクラシー」を造語したディストピア小説。著者自身が2001年のガーディアン紙寄稿で「讃美語として使われることへの憤慨」を表明した、能力主義批判の原点。

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